脳死と臓器移植

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脳死を人の死と定めた法律案が衆議院を通過した。この法律案はまた、0歳の幼児でも臓器提供できるとする定めを盛り込んだ。従来の法律が、脈拍、呼吸、瞳孔など身体症状に基づいた伝統的な死の判定基準を採用し、臓器提供を成人の自由意思に基づかせていたことに比べれば、画期的な内容だ。

だが国民の多くに、この新しい法律案を自然に受け入れる準備ができていないことは、新聞などの論調からも伺える。衆議院では通過しても参議院ではすんなりと通らないだろうと、新聞各紙が予測しているのも、そうした空気を反映したものだ。実際、参議院では、脳死を死とすることに反対し、臓器提供は本人の意思を尊重するとする、現行法の理念にこだわる議員が多いようだ。

そんな中で衆議院がなぜ法案の採決を急いだか。それは現行法の中にある見直し義務規定を、制定後10数年たった今も実施できないでいるという事情があったからだと説明されている。議会として不作為への批判を重く受け止めた結果だということらしい。

しかしいくら法律に見直し義務が盛り込まれているとはいえ、国民の大多数に受け入れられているといえないようなことを、なぜ急いで法律化しようとするのか。

死生観というものは、人間の生き方の根本にかかわるものであるし、また社会全体のありかたを律するものであるから、本来法律で強制するようなことがらではない。それを法律で定めようとするのは、そこに臓器移植という問題がかかわっているからだ。

臓器移植は医療が進歩したことの賜物であり、それ自体はすばらしいことだ。だがそれは他者の犠牲の上に成り立つことを忘れてはならない。

肝臓や腎臓などは、生体間でも実施できるから、提供する側と提供される側に、一定の信頼関係があれば、誰も咎めるものはいない。しかし心臓やその他の生命そのものとかかわるような臓器は、他者の死をあがなって初めてできる。

それゆえ、臓器移植が広く社会に受け入れられるためには、死んでいくものに対する周囲のものの深い配慮と、社会全体の了解がなければならない。

今回の法律案を見て、筆者などは、脳死を死とすること自体には大きな違和感は覚えない。日本人の古代以来の伝統的な死生観からすれば、脳死という観念はなかなかなじみにくいところもあるが、そこは医学の進歩に基づく、知識の拡大が埋めてくれる。

しかし、0歳の幼児を含めて、なんらの意思表示もしなかった人々の臓器まで、移植可能にすることには、大きな違和感を覚えざるを得ない。臓器のやり取りとは、人と人との信頼関係に基づいてなされるべきだと、考えているからだ。信頼関係を抜きにして、匿名の状態で臓器のやり取りをすることは、命を救うというよりは、人間の身体をビジネスの道具にしているかのように感ぜられる。

この法案は、参議院で引き続き審議されることになっている。参議院には臓器移植に慎重な議員が多いと聞く。衆議院はこの大事な法案を、大して時間もかけず、あっさりと採決したそうだから、参議院ではじっくりと時間をかけて審議し、国民の良心にも十分耳を傾けて欲しい。





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このページは、が2009年6月20日 20:41に書いたブログ記事です。

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