秋雨嘆三首其二 杜甫

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杜甫の七言古詩「秋雨の嘆き」(壺齋散人注)

  闌風伏雨秋紛紛  闌風伏雨 秋紛紛
  四海八荒同一雲  四海八荒 同じく一雲
  去馬來牛不復辨  去馬來牛 復た辨ぜず
  濁涇清渭何當分  濁涇清渭 何ぞ分つべけん
  禾頭生耳黍穗黑  禾頭は耳を生じ 黍穗は黑く
  農夫田父無消息  農夫田父 消息無し
  城中斗米換衾裯  城中 斗米 衾裯に換ふ
  相許寧論兩相直  相許さば寧ぞ兩つながら相ひ直るを論ぜん

吹きすさぶ風、降り止まぬ雨、この秋は乱れきっている、四方八方雲に覆われ、行きかう牛馬は馬とも牛とも見分けがつかぬ、濁涇清渭というが、どちらが涇水でどちらが渭水か、川水が氾濫して弁別もできぬ

禾頭には耳のような芽が出て、黍穗は黒く変じ、田や畑には農夫の姿もみえぬ、城中では一斗の米と引き換えに布団を売るものがいる、当面の用が足りれば値段のことは論じるまでもないのだ


杜甫が長安にいた時期は、天災が続いていた頃であった。天宝12年には旱と水害が交互に関中を襲い、天宝13年には秋の長雨が60日間も続いた。そのため収穫は極度に落ち込み、飢饉の恐れが高まっていた。

玄宗皇帝は心を痛め、側近の楊国忠や宦官の高力士に意見を求めるが、返ってくるのは無責任な答えばかり。政治は相変わらず乱れ続き、庶民は塗炭の苦しみを味わい続ける。杜甫のこの詩は、そうした世相を強烈に糾弾したものだ。

杜甫の一家自身も、長安での生活に行き詰る。そこで万策つきた杜甫は夫人の縁者のつてを求めて、妻子を奉先県(長安の東北120キロ)に寄寓させる。その時を境にして、杜甫の一層艱難に満ちた後半生が始まるといってよい。


関連サイト: 杜甫:漢詩の注釈と解説





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このページは、が2009年11月 4日 20:45に書いたブログ記事です。

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