尻の讃歌:人体の隠された部分 La face cachée des fesses

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フランス人のアラン・ロートシルト Allan Rothschild とカロリーヌ・ポション Caroline Pochon が共同で出版した人間の尻に関するユニークな写真集 La face cachée des fesses (上の写真はその一部:AFP提供)が評判を呼んでいる。

この写真集の中で二人は、ミケランジェロやアングルの描いた美しい人体から、19世紀のエロティックな映像に写されたあやしい人体に到るまで、人間の尻をさまざまな角度から取り上げ、尻のもつ美的・文化的意義を熱っぽく説いている。

二人によれば、人類史の黎明期以来、尻は人間にとってインスピレーションの源泉であり続けてきた。それは生命の躍動を感じさせるものであり、当然ながら性的欲望の対象ともなる、それがゆえに時にはタブーとされ、あるいは反抗のシンボルとなったりもした。

このように多義的な意味に富んだ尻というものが、抑圧の対象とされるのは近代以降の社会においてである。尻は人体の中にあって隠れた部分であり、あくまでも人の目から隠されなければならないものだ。それを公の前にさらすことは、公序良俗に反するばかりか、犯罪的行為であるといわねばならない。

現代でも、そうした傾向は基本的には変わっていない。尻に執着するような人間は、変態性欲のレッテルをはられても当然だ、そういう了解が支配している。

以上からわかるとおり、著者らは、尻を抑圧しようとする心性は人間性というものを一定の狭苦しい枠の中で捉えようとする、近代以降の文明人に特有の現象だと考えている。

彼らはこうした心性を批判して、ひとびとが尻というものにもっと非抑圧的にふるまうようになれば、世の中はもっと開放的で住みやすくなるに違いないという。

尻は人間の下層を象徴するものである。この基本的な性格から、近代以前においては、人間にとっての自然な一面を拡大してイメージさせる役割を果たしていた。それは排泄にかかわるだけでなく、誕生にかかわるところとしてもイメージされ、生命の死と再生のサイクルを象徴する部分として意識された。ヨーロッパのカーニバルの伝統の中でも、尻というものは陽気な生命がほとばしるところとして、愛されたのである。

こんな問題意識があるのだろう。著者らの尻へのこだわりは相当なものがある。

たとえば尻にたいする近代人のもっとも倒錯した反応として、19世紀初頭におけるホッテントットの逸話をあげている。巨大な尻をしたホッテントット族の女性がヨーロッパに連れられてきて見世物にされたことがあるが、その当時のヨーロッパ人は、ホッテントット族が人種的に劣っていることの証拠として、彼らの巨大な尻を上げたのであった。これは尻に対する近代人の態度がいかにネガティヴなものだったかを象徴する出来事だったというのだ。

またメル・ギブソン監督が1994年にリリースした「ブレイヴハート」という映画をとりあげ、その中でイングランド軍と対決するスコットランドの兵士が、敵を侮辱する徴として、むき出にした尻を向けるシーンを問題にした。彼らはこれを、尻というものがいかに多彩な意味を担うことが出来たかの一つの例だと解釈する。

現代にあっては、戦場で敢えてむき出しにされた尻には、せいぜい鉄の玉がお見舞いされるくらいで終わるだろう。だがかつてはそれが、適を侮辱する最も有効な手段として用いられた時代もあったのだ。

こんなわけでこの写真集は、尻というものに対する我々近現代人の見方に、ひとつの風穴をあけてくれそうなのだ。ともあれ一風変わった尻の讃歌というべき試みだ。






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このページは、が2009年12月16日 18:24に書いたブログ記事です。

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