2010年1月アーカイブ

ルイ・アームストロングの歌から「ハロー・ドリー」Hello, Dolly(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  ハロー・ドリー そうさ ハロー・ドリー
  きみが戻ってきてくれてよかったよ
  きみはすてきだ ほんとさドリー
  きみは輝いてる きみはさえずってる きみはいきいきしてる
  まったくすばらしいよ きみが戻って
  バンドの連中も歓迎の挨拶をしてるよ
  ようこそごきげんよう こちらにおいでなさい
  もう二度といかないでねって

ルイ・アームストロングの歌から「進めやモーゼス」Go Down Moses(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  進めや モーゼス
  エジプトの地を
  ファラオに告げよ
  レット・マイ・ピープル・ゴー

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティの詩から「初夜の眠り」NUPTIAL SLEEP(壺齋散人訳)

  ついに彼らは接吻をやめた 甘いうずきとともに
  嵐が過ぎ去った後に軒端から落ちる
  最後の一滴の水が残す余韻のように
  二人の胸には静かな鼓動がこだました
  二人はその胸を離しあい 束ねられたバラの
  花束がほころびるように 別々に横たわった
  それでも二人の唇はなお赤く燃えて
  互いに求め合っては再びの結合を求めるのだ

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The Catcher in the Rye の著者サリンジャー J.D.Salinger が死んだ。91歳だった。The Catcher in the Rye は20世紀後半においてもっとも影響力を持ったとされる小説だ。筆者も学生だった1970年前後に読んだことがある。そのときに受けた強烈な印象はいまでも記憶に残っている。主人公の感じ方や考え方に自分たちの世代のそれと共鳴するものを感じたことと、その生き方の中に反社会性というか、正確には没社会的な性格を感じ取って、足元をすくわれるような気持ちになったものだ。

宮沢賢治の詩が新鮮で美しく感ぜられるのは、彼の詩には光が溢れ、清浄な青空の下にそよぐ風が感じられ、生き物が生きることの喜びを謳歌しているからだ。賢治の心象を透過して現れたそれらのスケッチは、春の息吹に満ち溢れている。賢治は春を歌う詩人であり、光を歌う詩人であり、風を歌う詩人なのだ。

宮沢賢治が「春と修羅」と題する一群の詩を書いたのは大正11年から12年にかけての22個月間である。賢治はそれに序を付して、大正13年の4月に自費出版した。だが出版直後はもとより、賢治が生きていた間、この詩集は草野心平ら一部の人たちに評価されたのを例外として、殆ど注目されることはなかった。

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アルゼンチンの女性大統領クリスティーナ・フェルナンデス女史(上の写真:AFP提供)がユニークな演説をして話題を呼んでいる。豚肉は健全なセックスライフにとってバイアグラより効果があるというのだ。あなたもパートナーと一緒に豚肉を食べてごらんなさい、そうすれば週末には充実したセックスライフを楽しめるはずよ、といった具合だ。

例の豊穣たる熟女たちと、神田小川町のイタリア・レストラン、ラ・コモディタで新年会を催した。この店は羽田のアナゴ仲間と昨春訪れた際、味も雰囲気もよかったので、熟女たちにも喜んでもらえるだろうと思ったのだ。そのときには淡路町2丁目の交差点近くに店を構えていた。だが彼女たちをそこへ連れて行ったところ、シャッターが下ろされて、開いている様子がない。

ポール・エリュアールの詩「悲しみの常夜灯」Le front aux vitres(壺齋散人訳)

  窓ガラスに額を押し当てたぼくは 悲しみの常夜灯のようだ
  そのようにして暗い夜を過ごした空
  平野はぼくの開いた手の中に小さくおさまり
  二重になった地平線が無味乾燥に見える
  窓ガラスに額を押し当てたぼくは 悲しみの常夜灯のようだ
  ぼくは君を求めて時間を超越し
  ぼく自身を超越する
  ぼくにはもうわからない 果たして君を愛していたのかが
  ぼくらはふたりとも この世にいないも同然だから

ポール・エリュアールの詩「彼女がぼくの上に覆いかぶさる」Elle se penche sur moi..(壺齋散人訳)

  彼女がぼくの上に覆いかぶさる
  さりげない振りをして
  ぼくの愛を確かめるように
  それを確かめた彼女の瞳には
  放心の影が漂っている
  ぼくの手の中に頭をうずめて彼女は眠る
  ぼくらは眠る
  寄り添って くっつきあって
  ふたりとも生きている
  ぼくも 彼女も生きている
  ぼくの頭は彼女の夢の中で転がってる

新婚別は、結婚したかと思うとすぐに夫を戦争にとられてしまった新妻の嘆きを歌ったもの。兵車行の中で杜甫は、男を生むより女を生んだほうが増しだと歌っていたが、ここではその女でも夫を取られて寡婦になるくるいなら、はじめから生まなかったほうがよかったという。それほど人民の苦悩は深まっているように見えたのだ。

石壕吏は三吏三別六篇の中でもっとも有名なものである。杜甫のヒューマニズムが、抑制された感情の中からにじみ出てくるような趣がある。すでに兵車行の中で、戦争のために駆り立てられていく民衆の苦悩を歌っていた杜甫であるが、この詩の中での民衆の苦悩は、さらに増幅された形で描かれている。

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エジプト、アレクサンドリアの市街地の地下から古代エジプトの宮殿の遺跡が発掘され、およそ6百件に上る猫の像が掘り出された。猫は太陽神ラーの妻で、自身も深い信仰を集めていたバステト Bastet の姿を現していることから、この宮殿はバステトを祭ったものと考えられる。

「ロメオとジュリエット」が超一級の恋愛物語となりえたのは、二人の主人公が交わす言葉が、至高の美しさを帯びているからだ。名高いバルコニーのシーンやともに夜を明かしたときのシーンをはじめ、二人の言葉の交わしあいは、詩的なリズム感にあふれている。

ジュリエットの乳母は、批評家泣かせのキャラクターだ。普通の劇において、女主人公の乳母というのは、主人公に影のようにつき従って、彼女の行く手を照らしてやったり、行き過ぎた行動にブレーキをかけたりするというのが、大方の役回りだ。

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上の写真(AP提供)は四川省から上海動物園にやってきた子どもパンダたち。この5月1日から10月31日までにわたり開催される上海万博の特別ゲストとして招かれたものだ。全部で十頭いて、うちメスが六頭、オスが四頭、いづれも一昨年の四川大地震の後、飼育センターで生まれ、現在一歳半になる。

ルイ・アームストロングの歌から「マック・ザ・ナイフ」Mack The Knife(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  ザメのやつが 鋭い歯を
  ぎらりと見せれば 白く輝く
  そんな鋭いナイフを マッキーは持ってる
  いつもは隠して 見せないナイフ
  サメがひとたび 噛み付けば
  波を真っ赤に 染めるような
  マッキーは手袋を 使うおかげで
  手に血の跡は 残らないのさ

ルイ・アームストロングの歌から「わたしを夢見て」Dream a Little Dream of Me(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  星は輝く あなたの上で
  夜風はささやく 愛しているって
  鳥は歌う シカモアの枝で
  わたしを夢見て欲しいと

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水彩画を始めてかれこれ10年になるが、まだ自分の描いた絵を額に入れて、自分の家の玄関を飾るまでに至っていない。なかなか納得できるものが描けないでいたのだ。それがまあ、そろそろ納得してもいいかな、と思える作品にやっとたどりついた。

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティの詩から「接吻」THE KISS(壺齋散人訳)

  死の床にくすぶり続ける感覚だろうか
  それとも悪意ある一撃だろうか
  私たちの肉体から自尊心を奪い
  私たちの魂から婚礼の衣装を引き剥がすのは
  ああ いまでも彼女の唇はわたしの唇に
  まとわりつき からみあっている
  オルフェウスがいまはのときに臨んで
  色あせた恋人の顔を追い求めたように

横井也有の俳文集「鶉衣」に収められた諸篇を、今日の読者が読んだとしたら、どんな感慨を抱くだろうか。也有翁には気の毒だが、筆者には甚だ心もとなく思われる。

大田南畝が横井也有の俳文集「鶉衣」を刊行したのは、田沼時代が終わって松平定信が登場した頃、自らは狂歌の世界と手を切って謹厳実直な小役人の生活に閉じこもることを決意した頃であった。だからそれは南畝最後の遊び心のなせる業だったといってよい。前編三巻を天明七年に、後編三巻を翌年に、それぞれ蔦谷重三郎を通じて刊行した。

ポール・エリュアールの詩「大地は青い」La terre est bleue(壺齋散人訳)

  大地は青い オレンジのように
  一度だって言葉が誤ったことはない
  言葉を発しても歌にはならない
  言葉を求めあうならキスしよう
  道化たちと恋人たち
  許婚の口元には
  秘密がある 微笑がただよう
  彼女の衣装はゆったりしすぎて
  まるで裸でいるみたいだ

ポール・エリュアールの詩「ぼくが君に語ったのは」Je te l'ai dit(壺齋散人訳)

  ぼくが君に語ったのは雲のこと
  ぼくが君に語ったのは海に生えている木のこと
  波のこと 葉陰にいる鳥たちのこと
  岩がたてる音のこと
  ぬくもりのある手のこと
  きょろきょろと動き回る目玉のこと
  それは眠くなると空の色になるんだ

例のあひるの仲間たちと新年会をやった。場所は西新宿パークタワー内の海山という店。新宿三丁目から地下鉄に乗って初台でおりたが、そこから歩くと結構ある。新宿から歩くのと対して変わらないようだ。ともあれ席に座ると、筆者を含め6人が顔を揃えた。

乾元初年(758)の冬、洛陽を占拠していた安慶緒は回紇の力を借りた唐軍によって撃破され、一時河南省に退いた。長らく故郷を離れていた杜甫は、この機会に洛陽に戻り、陸渾荘を訪ねてみたいと願った。

杜甫の五言古詩「衛八處士に贈る」(壺齋散人注)

  人生不相見  人生相見ざること
  動如參與商  動(やや)もすれば參と商との如し
  今夕是何夕  今夕は是れ何の夕ぞ
  共此燈燭光  此の燈燭の光を共にず
  少壯能幾時  少壯能く幾時ぞ
  鬢發各已蒼  鬢發各々已に蒼し
  訪舊半為鬼  舊を訪へば半は鬼と為る
  驚呼熱中腸  驚呼して中腸熱す

ロメオとジュリエットが単純な恋愛劇ではなくて、カーニバル的な笑いに満ちていることについては、先に述べたとおりだ。それは形の上では祝祭として、精神の面では卑猥な笑いとして現される。

ロメオとジュリエットは、不幸な愛を描いたロマンス劇として、シェイクスピアの初期の悲劇を代表するものだと受け取られてきた。たしかに愛し合う男女が、親同士の敵対によって愛の成就を阻まれ、死ぬことによってしか結ばれえなかったという話は、筋からすれば悲劇そのものだ。悲劇というのは、個人が運命の巨大な力に押しつぶされ、愛や希望を成就できないことを意味する近代的な概念だからだ。

ルイ・アームストロングの歌から「オール・オヴ・ミー」All of me(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  オール・オヴ・ミー 連れてって欲しい
  きみなしでは いられないんだ
  キスして欲しい とろけるくらいに
  抱いて欲しい 君の胸のなかに

  さよならなんて いわれるのはつらい
  どうして きみなしでいられるだろうか
  わかってほしい ぼくのこころのうちを
  きみにいっしょにいて欲しいんだ

ルイ・アームストロングの歌から「ふるさと」When It's Sleepy Time Down South(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  真っ白な月が 野原にかかり
  人々が歌を 口ずさむ
  言わなくたっていい わかってるから
  いまはまどろみの 時間だって

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前年(2009年)の晩秋友人たちと一緒に房総をドライブした折、太海の漁港を訪ねた。ここは漁港そのもののほか、それに隣接する仁衛門島の景色も優れているため、スケッチスポットとして人気がある。ところが筆者は港や島ではなく、漁村のなんとなく寂れた光景が気に入った。この絵はそんな光景のひとつを描いたものだ。

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ Dante Gabriel Rossetti はラファエル前派を代表する画家として知られる。古典絵画と異なり、遠近法を無視した様式的な画風は、近代絵画に大きな影響を与えた。

大田南畝と上田秋成の出会いは、文学史上の奇事といえる。二人が出会ったのは、南畝が50台半ば、秋成が60台の末近くで、しかも南畝が旅先の短い時間の合間に、数回面談した程度の付き合いに過ぎなかった。それにもかかわらず、南畝はこの老人に深い興味を覚え、秋成のほうも心をゆるして語り合える親密さを感じた。この二人の経歴や性癖から考えると、非常に奇妙な友情なのだ。

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上の写真(ナショナルジオグラフィック)を見て何を連想するだろうか。これはサンショウウオの仲間のひとつアホロートル Axolotl といって、メキシコシティに近いホチミルコ湖沼群にのみ生息する希少種の生き物だ。

ポール・エリュアールの詩「君の瞼の曲線」La courbe de tes yeux(壺齋散人訳)

  君の瞼の曲線がぼくの心に円を描く
  踊りの輪のようにやさしい輪
  時のきらめき 眠りのゆりかご
  ぼくがいままでのことを覚えてないとしたら
  それは君の目がぼくを見ていなかったせい

ポール・エリュアールの詩「裸の真実」Nudité de la vérité(壺齋散人訳)

  絶望に羽はない
  愛にも羽はない
  どちらにも顔がない
  ましてしゃべることもない
  ぼくは動かない
  ぼくは見ようとしない
  ぼくは話しかけようとしない
  でもぼくは生きている
  ぼくの愛と絶望もまた生きている

杜甫の七言律詩「九日、藍田の崔氏が莊」(壺齋散人注)

  老去悲秋強自寬  老い去って悲秋に強ひて自ら寬(ゆる)うし
  興來今日盡君歡  興來って今日君が歡を盡す
  羞將短髪還吹帽  羞づらくは短髪を將て還た帽を吹かるるを
  笑倩旁人為正冠  笑ふらくは旁人を倩って為に冠を正すを
  藍水遠從千澗落  藍水遠く千澗より落ち
  玉山高並雨峰寒  玉山高く並びて雨峰寒し
  明年此會知誰健  明年此の會知んぬ誰か健なる
  醉把茱萸仔細看  醉ふて茱萸を把って仔細に看る

華州の役所で杜甫が着任した司功参軍という職は、州内の官有地の管理から人民の生活にいたるまで広い領域をカバーするものだったらしいが、これまでの左拾遺が清官と呼ばれていたのに対して、これは卑官と呼ばれるように、高い志を持った杜甫にとっては不本意きわまるものだった。

「真夏の夜の夢」に出てくるキャラクターのうち、ボトムほど後世の観客に愛されたものはないだろう。彼がロバに変身するシーンは、オヴィディウスの変身物語のバリエーションといえるが、その奇想天外さが人々の想像力を刺激し、数多くの詩人たちが好んでテーマに取り上げた。

「真夏の夜の夢」に出てくる四人の男女、ヘレナ、ハーミア、デメトリウス、ライサンダーは、劇の前半ではそれぞれが不幸な恋に悩む若者たちとして悲劇的なタッチで描かれているが、劇の後半になると、妖精に魔法をかけられたことを割り引いて考えるとしても、俄然喜劇的な行動をするようになる。

ルイ・アームストロングの歌から「陽のあたる道」On the sunny side of the street(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  コートをつかめ 帽子もだ
  玄関を出たら みんな忘れろ
  生きることを考えろ
  陽のあたる道に出たら

ルイ・アームストロングの歌から「スターダスト」Star Dust(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  時々 夢で出会う
  さびしい夜に
  ひとつの歌に
  するとメロディとともに
  あなたの姿が甦る
  楽しかったあの頃 口づけを交し合った
  それも昔のこと いまはなにもかも
  スターダストの彼方
  でも花壇の先に 星々は輝き
  あなたがよみがえる
  ナイチンゲールが愛をささやき
  夢の国にバラが花咲く
  よしもない夢だけど あなたの姿が
  星屑に囲まれて
  よみがえってくるのです

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能「巻絹」は、熊野三山を舞台にして、歌の功徳を歌ったものだ。筋書きはごく単純で、熊野に絹の奉納を命じられた使者が、途中音無の宮で歌を詠んだりして遅れたことを理由にいましめを受けたところ、熊野の神が巫女に乗り移って現れ、歌の功徳に免じて使者のいましめを解いてやるというものである。

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ぎょしゃ座は冬の夜空をいろどる星座のひとつだ。オリオン座の三ツ星の北側にひときわ大きく光るカペラが星座のシンボル、その傍らに、カペラほど大きくはないが、やはり明るく見える星にエプシロンがある。

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今年の北半球は例年になく寒いようだ。シベリアや朝鮮半島は連日異常低温に見舞われ、日本でも日本海側は大寒波が吹き荒れている。インドのような暖かいというイメージが強い国でも、ヒマラヤ沿いの北部諸州は、多数の凍死者をだすほど厳しい寒さが続いているという。

大田南畝は蜀山人という名でも知られている。むしろその方が通りがよい。蜀山人という名には一種伝説的な響きがあり、昭和の始め頃までは、一休さんと並んで頓知の名人というイメージが流布していたほどだ。パロディがうまく、なんでも笑い飛ばしながら、どこかに反骨精神がある、そうした評判が蜀山人を伝説上の人物に仕立て上げたのだろう。

ポール・エリュアールの詩「恋する女」L'amoureuse(壺齋散人訳)

  彼女の目がぼくの目に突き刺さる
  彼女の髪がぼくの髪ともつれ合う
  彼女の手はぼくの手と同じ形だ
  彼女の瞳はぼくの瞳と同じ色だ
  彼女の影がぼくの影と溶け合う
  石が空と溶け合うように

ポール・エリュアール Paul Eluard の詩「マックス・エルンスト」Max Ernst(壺齋散人訳)

  隅っこのほうでは もつれあったふたり
  少女が侵されるのは近親相姦を見るようだ
  隅っこのほうでは あけ広がった空が
  嵐の背骨に白い玉をそそぎかける

  隅っこのほうでは 目を大きく見開いて
  魚の苦悩を見つめている人がいる
  隅っこのほうでは 野菜のような緑色の車が
  でんと構えて動かないでいる

  青春の花盛り
  ランプの光に照らされた
  少女のおっぱいには 赤い昆虫の死骸が見える

杜甫にとって、左拾遺の職を授けられて国政の一角を担えたことは生涯の中で最も幸福な時期といえるものだった、だがそれは長くは続かなかった。杜甫がかつて擁護した房琯が、奸臣たちによって再び古傷を云々されて、邠州の刺史に左遷されたことに伴い、房琯の一身とみなされていた杜甫も、華州の司功参軍に左遷されてしまったのである。時に乾元初年六月、左拾遺に任命されてわずか一年後のことだった。

杜甫の七言律詩「曲江二首其二」(壺齋散人注)

  朝回日日典春衣  朝に回りて日日春衣を典す
  每日江頭盡醉歸  每日江頭に醉を盡くして歸る
  酒債尋常行處有  酒債尋常行く處に有り
  人生七十古來稀  人生七十古來稀なり
  穿花蛺蝶深深見  花を穿つの蛺蝶深深として見え
  點水蜻蜓款款飛  水に點ずるの蜻蜓款款として飛ぶ 
  傳語風光共流轉  語を傳ふ 風光共に流轉して
  暫時相賞莫相違  暫時相賞すること相違ふこと莫かれと

真夏の夜の夢は恋の多重奏ともいうべき構成をとっている。劇全体の主催者とも言うべきテーセウスとヒポリタの婚姻の周囲に、オベロンとティターニアの駆け引き、ティターニアとロバの夢幻的な恋、ハーミア、ヘレン、ライサンダー、デメトリウスの四人の若者が繰り広げる錯綜した恋、そして職人たちがテーセウスの婚姻を祝うために行う劇中劇としてのピラマスとシスビーの悲恋物語、これらいくつもの恋が錯綜し、もつれ合うことで劇が進展していく。

ロバに変身したボトムをティターニアが愛するシーンは、真夏の夜の夢という作品の中でもっとも強烈なインパクトを持っている。ティターニアは夫のオベロンによって、意に従わぬ罰として怪物を愛するように仕向けられるのだが、それがなぜロバでなければならなかったのか。

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まだ小さな子供だった頃、母親から、十二支のなかになぜ猫が入っていないか、その理由を御伽噺のかたちで聞かされたことがあった。

ルイ・アームストロングの歌から「じっとしてるよ」Ain't Misbehavin'(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  話しかける 相手もない
  ひとりぼっちだけど 惨めじゃないんだ
  じっとして きみを待ってるよ

  わかってるんだ 愛してるんだ
  きみだけだよ ぼくが思ってるのは
  じっとして きみを待ってるよ

  コーナーに追いこまれた ジャック・ホーナーみたいに
  どこにもいかないで 我慢するよ
  きみのキスを待ってるよ ほんとだよ

ルイ・アームストロングの歌から「セント・ジェームス病院」St James Infirmary(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  行ってきたよ セント・ジェームズ病院へ
  あの子に会いに
  横たわっていたよ 白いテーブルの上に
  冷たく 悲しく 美しく

  神様 あの子に 祝福を
  たとえ死んでも
  この世のことは忘れないでくれ
  俺との思い出を思い返してくれ

天明六年(1786)に田沼意次が失脚すると、田沼の同類として賄賂政治を行っていたとみなされた連中も失脚した。その中には勘定奉行松本伊豆守やその配下の土山宗次郎なども含まれていた。この動きは松平定信が老中に就任する天明七年六月以降加速し、田沼派は全面的に粛清される。

今年の正月は我が愛する宮沢賢治と一緒に迎えた。というのも昨年の十二月に入って以来ぼちぼち読み始めていた賢治の作品を、年末年始の休みに入ってからというもの、集中的に読んだのだ。とにかく読み始めるととまらない、昔買ったまま書棚の一隅に積み捨てておいた筑摩書房版の全集を引っ張り出しては、片っ端から読み漁った。

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NHK恒例の元旦の能番組が、今年は観世流の「八島」を放送した。シテは梅若玄祥が演じていた。テクストについては別稿で紹介したのでここでは詳しく触れないが、正月を飾るに相応しい、なかなか見ごたえのある舞台だった。とくに最後に近いところでのカケリがよかった。

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還暦を過ぎて余生を過ごす身になったものにとって、新しい年は人生のおまけのようなものだ。そのおまけというか、お年玉を天から授かって、またひとつ新しい年を迎えることができた。だからそのことを精一杯大事にして、これから生きる人生がつまらぬものに終わらぬよう努力しよう。そんな気持ちでこの朝を迎えた。



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