今年の正月は我が愛する宮沢賢治と一緒に迎えた。というのも昨年の十二月に入って以来ぼちぼち読み始めていた賢治の作品を、年末年始の休みに入ってからというもの、集中的に読んだのだ。とにかく読み始めるととまらない、昔買ったまま書棚の一隅に積み捨てておいた筑摩書房版の全集を引っ張り出しては、片っ端から読み漁った。
賢治の作品は青年時代に一とおり読んだことはある。童話の類はいまだに印象の片隅に残っていないわけではないが、詩に至っては、あの「雨ニモマケズ」を除けば、大方どんなものかも忘れていた。というより十分に自分のものになっていなかったというのが、正確なところだろう。
今回は特に詩のほうに目を覚ます思いをさせられた。「春と修羅」に納められた詩の数々は、言葉のリズム感や表現の美しさだけでも人をひきつけるものがあるが、しかしそれ以上にそこに盛られている思想が、壮大なスケールをもっていることに気づかせられた。この思想は童話のほうにも反映されている。だから賢治の思想をしっかり捉えた上で読み直すと、いままでわかっていなかった賢治の世界が、見えてくるような気がした。
その思想とは、賢治の宇宙観というか、独特の時空感覚が根底になって出来上がっているものだ。そこには賢治が帰依した法華経の世界や、相対性理論を援用した世界像の賢治なりの解釈がこだましている。賢治はそれを基にして、およそ存在というものの永遠性や魂の不滅といったことについて、熱っぽく読む者に語りかけてくる。
それは、この世の中に生きることの辛さであったり、あるいは自然の中に見つけた思いがけないことの発見であったり、あるいは生きることの喜びであったりもする。
そんなふうに賢治から語りかけられる言葉を聞くと、筆者は心がざわざわしてくるのを感じたりするのだ。とっくに還暦を過ぎた老人だというのに、自分の中にまだそんな若々しい感受性が、かけらなりとも残っていることを感じて、ちゅっぴりうれしくもなった。
賢治の思想をもっと大きなパースペクティブから捉えようとして、見田宗助をはじめ優れた賢治研究にもあたってみた。それらを参考にしながら、筆者なりに賢治の世界の芯を貫いているものを、自分の中で再構築し、その観点をもとに、詩や童話を鑑賞し、また解釈しなおしてみた。
その結果はいづれこのブログでも披露したい。賢治は読む人ごとに多様な解釈を許すような類の作家だから、きっと筆者の勝手な解釈にも快く耳を傾けてくれるだろう。
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