大田南畝と上田秋成

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大田南畝と上田秋成の出会いは、文学史上の奇事といえる。二人が出会ったのは、南畝が50台半ば、秋成が60台の末近くで、しかも南畝が旅先の短い時間の合間に、数回面談した程度の付き合いに過ぎなかった。それにもかかわらず、南畝はこの老人に深い興味を覚え、秋成のほうも心をゆるして語り合える親密さを感じた。この二人の経歴や性癖から考えると、非常に奇妙な友情なのだ。

上田秋成はいまでこそ「雨月物語」の作者として有名だが、生前には京都の一部の人たちに知られているだけで、江戸では全く知られておらず、無名の人物だった。そんな秋成に南畝が興味を持ったきっかけは、大坂出役中に秋成の奇文を読んだことだった。南畝は次のように書いている。(長屋室記)

「客歳浪花に于役し、吏事の余一奇文を見る、云ふ、これ余齋(秋成)翁の文と、激賞して已まず、その人を見んことを願ふ、既にこれを常元精舎に見る、唯にその文を奇とするのみならず、その人も亦奇なり」

上田秋成といえば、文学史上気難しかったことで有名だ。容易に人を寄せ付けず、常に斜目で世間を見、人をよく罵倒した。本居宣長のことでさえ、「ひが言をいふても弟子ほしや乞食伝兵衛とひとはいふとも」などと口汚く罵っている。そんな秋成と初対面した南畝も、その文が奇妙のみならず、人柄もまた奇妙だと感じたわけであろう。

生来人嫌いで、友人も少なかった秋成だが、なぜか南畝が気に入った。そんな気持を最晩年の文「胆大小心録」の中で次のように書いている。

「翁三都にうるはしき友なし、江戸の大田直次郎との、京の小沢芦庵、村瀬嘉右衛門は知己なり、善友に非ず、大田は・・・一とせ大坂の役にて、長崎の御用に出られし時、ふと出会して、互いに興ありとす、狂詩、狂歌の名高けれど、下手なり、ただ漢文の達意におきて、筆を休めして成る」

うるわしき友人がいないといっている中で、筆頭にあげているのだから、秋成がいかに南畝を尊重したか伝わってくる。善友に非ずといい、また狂詩、狂歌が下手だといっているのは、秋成一流の韜晦だろう。

それにしても何故、対照的ともいえるこの二人が意気投合したか。少なくとも、上田秋成という稀有の奇人が何故南畝と言う人物を好きになったのか、そこのところが興をそそるのだ。

南畝から云えば秋成は一回り上の年齢の人であるから、とりあえずは先輩に対して礼儀を以て臨みながら、その人柄の奇妙さを密かに楽しんでいたのかもしれない。南畝には、人間も含めてあらゆるものを、観察の対象にして喜ぶといったところがある。あるいは秋成をも、そのような醒めた観察眼で眺めていたのかもしれない。

一方秋成のほうは、南畝のなかに自分にないものを認めて、そこに惹かれるものを感じたのかもしれない。南畝は狂歌は下手だが漢文は達人といっても良い、しかもこの男は如才がなく、あれこれと自分を持ち上げてくれる、話していて飽きることがない。そんなところに惹かれたのかもしれない。


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