春と修羅:宮沢賢治の詩的宇宙

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宮沢賢治が「春と修羅」と題する一群の詩を書いたのは大正11年から12年にかけての22個月間である。賢治はそれに序を付して、大正13年の4月に自費出版した。だが出版直後はもとより、賢治が生きていた間、この詩集は草野心平ら一部の人たちに評価されたのを例外として、殆ど注目されることはなかった。

宮沢賢治のこの詩集は、今ではどんな日本人にも愛されている。日本人なら、この詩集を読んで心の騒ぐのを覚えないものはない、それほど我々日本人の心の琴線に訴えるものがある。筆者も賢治のこの詩的な営みに心躍らせたものの一人だ。そんな感動の幾分かでも、誰かと共有することができればと思う。

賢治の文学的出発点は、大正7年ごろから書き始めた童話のほうだ。和歌は年少の頃から作ってはいたが、本格的な詩作はこれが始めてだと推測される。それにしては出来上がった詩の多くは、勢いと香気に満ちている。

それには彼の精神を高揚させるようないくつかの出来事が介在していた。

賢治は大正10年の1月に上京して日蓮宗の団体国柱会に入信した。賢治は十代の終わり頃に法華経を読み、それがもとで熱心な法華信徒になっていたが、国柱会への入信は、賢治の法華信仰をより深めた。

賢治は国柱会のために熱心な活動をする傍ら、高知尾智耀師に勧められて法華文学の創作に没頭した。彼が生涯に残した童話のうちの、多くの作品の骨格が、この時期に作り上げられたのである。

半年ほどの東京滞在の後、賢治は花巻に帰るが、帰郷後は詩作に没頭するようになった。「春と修羅」に納められた詩は、国柱会時代から連続するこのような精神的な高揚の中から生まれた。

詩作に当たっては、賢治は伝統的な観念にはとらわれなかった。彼自身、自分の詩を詩という言葉で呼ばず、心象スケッチと呼んでいる通り、詩作はあくまでも自分の心の中や、そこに映し出された自然を素直に描き出すものであった。賢治にとって、その素直な気持ちを描くことが、法華経の世界観を表出することにつながると思われたのだろう。

また、この詩作の期間に、愛する妹トシが死んだ。トシは賢治にとってただに兄と妹というにとどまらず、法華信仰のかけがえのない道連れでもあった。その死はだから、彼には計り知れない打撃となった。「春と修羅」に納められた一群の挽歌をよめば、その辺の事情がよくわかる。

「春と修羅」が、賢治の法華信仰と密接に絡み合っていることは、これまでにも多くの研究者たちによって言及されてきた。中には宮沢賢治の文学を、法華文学だと断定し、賢治を宗教詩人であるとみなす論者もいる。

たしかに賢治の文学には深い宗教的な心情が溢れており、また宗教と関連付けて読まなければ理解できない部分がある。だからといって、法華経だけを拠り所として賢治の作品を読み解こうとするのでは、狭い読み方に陥る恐れがある。

賢治は宗教家の端くれであったことは否めないが、またアインシュタインの相対性理論を読みかじっていたとおり、自分の世界観を科学的な知見に立脚させようとするところもあった。彼の世界観というか宇宙観、そしてそれを根底のところで規定している時空感覚は、法華経をよりどころにした宗教的な時空感覚と、相対性理論から思いついた壮大な時空感覚とが融合したようなものだ。

そうした賢治の世界観というか、宇宙観は、独特の輝きに包まれている。「春と修羅」の序にあたる詩は、この世界観・宇宙観あるいは時空感覚の一端を闡明しているものだ。この時空感覚が理解できないと、賢治の詩を読み解くのはむつかしい。

以下原文にそって、賢治の世界観を特徴付けるものを、いくつかのキーワードに即しながら、読んでいこう。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
   (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
   (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

いきなり、現象、有機交流電燈、照明、幽霊の複合体、因果交流といった耳慣れない言葉が羅列される。文字面だけを見ていたのでは、はたして何が言いたいのか、わからなくなる。

まず「わたくしといふ現象は」といっている。「わたくしは」でないところがみそだ。何故あえて現象なのか。

賢治にとっては、「わたくし」という実体が存在して、その表れとしてのわたくしの想念や行動が、現象としてあるのではない。「わたくし」とは日々刻々、わたくしの行動や想念として展開するその現象そのものの総和である。現象を離れてその背後に本体を求めるのは無意味である。逆に本体としてのわたしの肉体がこの世から死んでなくなったとしても、わたくしという現象はこの世とは別の次元で明滅し続けるかもしれない。

賢治にとっては、人間という生き物も、その対象世界としての自然も社会もみな、現象の相互作用がおりなすものなのだ。現象の背後に何か特別なものを見ようとしても、それは無益な試みなのだ。

わたくしには実体や本体と呼ばれるものはなく、ただただわたくしという現象のおりなすものがわたくしというものを意識させる。この現象はそうしたものとして、生まれもせず滅びもしない。なぜなら現象は本体の仮の姿なのではなく、まさしく現象として不生不滅の縁起にしたがって継起するだけだから。

本体という考えにこだわるならば、本体が滅した後のことが気になろう、だが現象は、ややくだいていえば、幽霊のようなものだ。幽霊とは時空にこだわらず、それがあるところにあり、あらぬところにあらず、見える人にはみえ、見ない人には見えない、要するにいつでも目の前にあるものとはかぎらないが、かといって完全に消え去ることもない。どこかでかならず存在しているものなのだ。

このように宮沢賢治がいうところの現象とは、非常にユニークな概念だ。わたくしを含め、宇宙や世界はこの現象の総和としてある。そのなかでこのわたくしという現象は、交流電燈のひとつの青い照明のようなものである。といって交流電燈という本体が光を放っているのではない。電燈は失われており、光が自ら青く光っているだけだ。この光はせわしく明滅しながら、たしかにともりつづける。そのともりつづける光として、わたくしはある。

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と鉱質インクをつらね
   (すべてわたくしと明滅し
    みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケツチです

賢治はついで、詩集に収められた作品の由来を紹介する。これらの作品は22ヶ月間の間の過去と呼ばれる世界から蘇ったものだ。それはわたくしと一緒に明滅し、みんなが同時に感ずるもの、あるいはわたしの心の中で明滅していたものの、そのままの姿のスケッチだという。

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は
  宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
  記録されたそのとほりのこのけしきで
  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
  ある程度まではみんなに共通いたします
   (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
    みんなのおのおののなかのすべてですから)

これらの作品を読んで、読者は人や銀河や修羅や海胆が宇宙塵を食べたり、または空気や塩水を呼吸しているのを読み取り、それらの事象の背後に本体があると感じたりするかもしれないが、これらはあくまで現象、つまり作者の心の中に生起していた「けしき」をスケッチしたものに過ぎない。それを虚無と呼びたければ、そう呼んでもよいが、だからといって現象が鮮やかさを失うわけではない。

  けれどもこれら新生代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一点にも均しい明暗のうちに
    (あるいは修羅の十億年)
  すでにはやくもその組立や質を変じ
  しかもわたくしも印刷者も
  それを変らないとして感ずることは
  傾向としてはあり得ます
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料(データ)といつしよに
   (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません

読者がこれらの作品を読んで、作品の中で描かれているさまざまな事柄が、不変の事実としてあったと感じるとしたら、言い換えれば、現象の担い手としての本体が存在したと考えるならば、それは余り意味がない。

記録や歴史というものも、場合によってはそうした事実を引き起こした実体があったと考えられがちだが、実際にはいまそれらを読んだり感じたりしている、われわれひとりひとりの、心の中にあるのに過ぎない。

  おそらくこれから二千年もたつたころは
  それ相当のちがつた地質学が流用され
  相当した証拠もまた次次過去から現出し
  みんなは二千年ぐらゐ前には
  青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
  きらびやかな氷窒素のあたりから
  すてきな化石を発掘したり
  あるいは白堊紀砂岩の層面に
  透明な人類の巨大な足跡を
  発見するかもしれません

ひとは現在を生きている人間というものの本質が永久不変で、何時の世においても変わらぬ行動や考え方をするものだと思いがちだが、もしかしたら2000年後の人類は、今の人類とはまったく違ったように考えるかもしれないのだ。

2000年後の人間は、2000年前には「青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たと」思ったり、「白堊紀砂岩の層面に透明な人類の巨大な足跡を発見するかも」しれない。

そして最後に賢治は言う。

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

第四次延長とは、時空についてのアインシュタインの相対性理論の考え方を思い起こさせるが、賢治が言いたいのは、人間や自然の存在性格は、我々が思っているようなものとは異なるのだということだ。

我々が生きているのはいうまでもなく三次元の世界だ。三次元の世界として、我々の見慣れた空間や時間の流れが存在していると我々は考える。だが二次元の平面で生きているものに、三次元の世界が理解できないであろうと同じ意味で、三次元で生きている人には四次元の世界は理解を超えたものだろう。

しかし理解できないからといって、それが存在しないとは断定できない。実際賢治は、この四次元からやってきたと思われる信号を、「すきとほった」風の匂いの向こう側に感じたりするのだ。


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