じゃじゃ馬馴らし The Taming of The Shrew:シェイクスピアの喜劇

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「じゃじゃ馬馴らし」 The Taming of The Shrew はシェイクスピアの作品の中でも、ひときわ論争の種が多いものだ。喜劇のうち最も早い時期の作品だが、彼の若さが盛り込まれているせいか、荒々しい笑いが逆巻いているような感じをさせる。

テーマは礼儀を知らぬおてんば女を、貞淑な妻へと調教しようというものである。人間の女性をじゃじゃ馬扱いにしているこの作品はだから、男女差別の最たるものとして、顰蹙を買うことが多いのである。

現代の演出家は、この作品には尻込みすることが多いようだ。現代の女性たちはフェミニズムの嵐をくぐってきているので、女性にも男性と同じ尊厳を求める。だから下手にこの作品を舞台に載せると、男たちからはニヤニヤされるかもしれないが、女性からは総すかんを食うこと請け合いなのだ。

かといって封印されたまま上演の機会がないかといえば、そうではない。シェイクスピアの作品のうちでも結構人気のあるほうだ。女性をただ露骨に貶めているだけではない、歴史的・構造的な深みが潜んでいるからだろう。

シェイクスピアの同時代人にとっては、この劇のテーマはおなじみのものだった。当時のイギリス人は滑稽な笑劇を好んでみていたが、中でも人気のあるテーマは、女房を寝とられる間抜けな亭主の話と、手に負えないじゃじゃ馬女を調教して貞淑な女房へ変身させるしたたかな亭主の物語だった。チョーサー以来のこの笑いの伝統を自分の作品にとりいれることで、シェイクスピアは舞台上の成功をあてに出来たといえる。

だが、じゃじゃ馬を調教する類の物語は、ロンドンの平民相手には大成功を納めるかも知れぬが、それでは余りに品のないものになる可能性が強い。作家としての自分の名声にも悪い影響が及ぶかも知れない。そこでシェイクスピアは、ちょっとした小細工を弄した。この笑劇を、別の劇の劇中劇として、舞台上の虚構の出来事、単なる笑いの種だと観客に思わせたのである。

「じゃじゃ馬馴らし」には序幕 Induction と呼ばれる部分がある。クリストファー・スライという職人が酔いどれて眠りこけているところに、領主の一行が通りがかる。領主はこの男をからかってやろうと思いつき、自分の屋敷に連れて行って豪華な衣装を着せ、ベッドに寝かせる。そしてスライが目覚めたとき、いままでの人生は夢であって、現実のスライは領主さまなのだと思い込ませようとする。

この笑劇は、すっかり自分を領主と思い込んだスライを楽しませるために、領主の家来たちが演じるということになっているのだ。だから劇中劇のわけである。この点では「真夏の夜の夢」の劇中劇と似たような構造だが、違うところは、この劇では笑劇のほうが本体になって、親の劇のほうが付け足しになっていることだ。また、スライは半分寝ぼけながらこの笑劇を見ていることになっている、だからスライの立場からすれば、劇中で展開される光景は、彼の夢のなかの出来事だと解釈することもできる。

こんな二重の小細工を仕掛けたうえで、シェイクスピアは劇を展開させていく。少しくらい猥雑になっても、それは作者のイマジネーションが下等だからではなく、スライの夢が下品だからだ、そんな言い訳もできようというわけだ。


関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト






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このページは、が2010年3月 8日 20:16に書いたブログ記事です。

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