打算から真の愛へ:ウィンザーの陽気な女房たち

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「ウィンザーの陽気な女房たち」には、メインテーマとしての女房たちの報復劇の傍らに、フェントンとアンの愛の物語が、サブテーマとして組み込まれている。この二人の愛は最後には結婚というかたちで実を結ぶが、そのことがこの劇を喜劇たらしめているともいえる。もし彼らの結婚がなかったなら、単なるドタバタ笑劇に終わってしまうところだ。

シェイクスピアはこの恋愛劇を、打算と真情をめぐる葛藤の劇として展開している。

フェントンは落ちぶれたとはいえ、貴族の端くれである。その点やはり宮廷の権威を振りかざすフォールスタッフとは同じ孔の狢だと、ページやフォードたちにの眼には映る。彼らは放蕩三昧にその日を暮らし、あわよくばそのヅケを自分たちに回しかねない危険な連中として捕らえられている。だからフォールスタッフが女房たちをおいかけまわすのと同じ次元で、フェントンもアンを追い掛け回していると、用心される。

そんなフェントンがアンを見初めたのは、フォールスタッフ同様金目当てだったというのも、あながちうそではない。アンにむかってフェントン自身がそう告白しているシーンがある。

  フェントン:きみのお父さんは絶対だめだというんだ
   ぼくがきみを求めているのは財産のためだっていうんだ
  アン:そのとおりではないのですの
  フェントン:とんでもない 誓っていうよ
   たしかにきみに求愛したそもそもの動機は
   君のお父さんの財産に目がくらんだからだよ
   だけど次第に 君自身の価値に気づいたんだ
   それは金貨や財布なんかよりすっと貴重なものだ
   君とつきあっているうち
   そのことに気づいたんだよ(第三幕第四場)
  Fenton:He tells me 'tis a thing impossible
   I should love thee but as a property.
  ANNE PAGE :May be he tells you true.
  FENTON:No, heaven so speed me in my time to come!
   Albeit I will confess thy father's wealth
   Was the first motive that I woo'd thee, Anne:
   Yet, wooing thee, I found thee of more value
   Than stamps in gold or sums in sealed bags;
   And 'tis the very riches of thyself
   That now I aim at.

このように男女の間を金と絡ませて描くのは、シェイクスピアには珍しいことではない。「じゃじゃ馬馴らし」のペトルーチオがカタリーナに求愛したのも金が動機だったし、「ヴェニスの商人」のバッサーニオのポーシャに対する愛も投機的な動機がそもそもの始まりだった。

さてフェントンは自分の不純な動機を認めた上で、今では掛け値なくアンを愛していると誓う。しかしアンにとっては、それは口先だけのことかもしれないという不安がある。

だからフェントンが自分の愛を本当に証明して見せるためには、金がなくとも結婚するという意志を実践して見せることが必要だ。駆け落ちをすれば、父親からの持参金は望みがなくなるのである。

アンには求愛者が他にもいた。フランス人医師ケーズと有力者の従弟スレンダーである。アンの父親ページはケーズなら財産も持っており、ブルジョアとして信頼できるから彼に娘をやろうとする。一方母親のページ夫人はスレンダーが気に入って彼に娘をやろうとする。

こうしてクライマックスの妖精たちのシーンを迎える。ページはアンにグリーンの衣装を着せておくから騒ぎにまぎれてグリーンの妖精を連れ去れとケーズに言い含めておく。ページ夫人のほうはスレンダーに、白い衣装をアンに着せておくといい含めておく。ふたりは打ち合わせどおり、騒ぎにまぎれてそれぞれ目当ての衣装を着たものを連れ去るが、後にどちらも本物のアンでないことがわかる。本物のアンは機転を聞かせて別の衣装に着替え、フェントンといっしょに駆け落ちしてしまうのである。

駆け落ちを通じて硬く結ばれたフェントンとアンは、最後に親たちの前に現れる。

  フェントン:あなたがたは恥知らずにも 
   愛のかけらもないような結婚をアンに無理強いしました
   実をいえば 彼女とわたしはとっくに婚約を取り交わし
   いまでは誰もわたしたちを引き裂くことはできません
   彼女が犯した罪は聖なる罪であり
   ご両親をだましたことになってもそれは
   悪巧みとか 不従順とか 親不孝というのではありません
   こうすることで 強いられた結婚がもたらすはずの
   神を呪いたくなるような悲惨な日々を
   避けることができたのです(第五幕第五場)
  FENTON:You would have married her most shamefully,
   Where there was no proportion held in love.
   The truth is, she and I, long since contracted,
   Are now so sure that nothing can dissolve us.
   The offence is holy that she hath committed;
   And this deceit loses the name of craft,
   Of disobedience, or unduteous title,
   Since therein she doth evitate and shun
   A thousand irreligious cursed hours,
   Which forced marriage would have brought upon her.

シェイクスピアの時代にあっては、不幸な男女が障害を乗り越えて結ばれるというのは、喜劇の不可欠の型であった。障害が大きければ大きいほど、男女が結ばれたときの喜びも大きい。その喜びの大きさが喜劇のスケールを決定付けるのだ。

この喜びは民衆文化の中で氾濫していた喜びを反映している。中世からルネサンスにかけて生きていたヨーロッパの民衆が、この喜びを生きることの喜びとして捉え、カーニバルを初めとした伝統的な民衆劇の中で爆発させていたことについては、ミハイール・バフチーンが熱っぽく語っているとおりである。


関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト





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このページは、が2010年3月 2日 19:08に書いたブログ記事です。

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