ボードレールの女性蔑視

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ボードレールは文学史上の巨星として、いまや世界中から高く評価されているが、それでも女性の間では今ひとつ人気があるとはいえない。彼が描く女性像がなんとなく一人前の人間としての威厳を感じさせず、男の付属物のような弱々しさに満ちているからだろう。それにボードレール自身、女性を平然と侮蔑する言葉を随所で放ってもいる。

創作メモとして書かれたと思われる「赤裸の心」は、その題名が暗示するとおり、ボードレールの本音が最もよく現れている文章だが、その中でボードレールは、女性に対する侮蔑的な意見を繰り返し吐いている。

「女はダンディの逆である。
だから人をぞっとさせることになる。
女は腹が減ると食べたがる、のどが渇くと飲みたがる。
さかりがつくとされたがる。
たいしたものだ。
女は自然的である、つまり忌まわしい。
また女は常に卑俗である、つまりダンディの逆だ。」(矢内原伊作訳、以下同じ)

こんな文章を読まされたら、どんな女性でも作者に一発かませたい気分になろうというものだ。

ボードレールの女性蔑視はさらに続く。

「私はいつも女が教会に入ることが許されていることに驚いたものだ。女と神がどんな会話をなしうるのだろうか。
永遠のヴィーナス(浮気、ヒステリー、気まぐれ)は、悪魔の魅惑的な形のひとつである。
女は魂と肉体を引き離すことができない。女は動物のごとく単純派である。皮肉屋なら、女は肉体しかないからだ、というだろう。」

このようにボードレールにとって、女は魂を持たない肉の塊であって、その内臓によって物質にあまりにも強く結びついている。女が愛を云々するのは、自分の肉体から別の肉体を生産する目的のためだ、こういうわけである。

そんな女でも、男は相手にしないわけにはいかない。だがそこにはおのずと男の主義が介在する。

「性交とは他人のなかへ入ろうと欲することだが、芸術家は決して自分自身の外へは出ない。」

つまり女と性交しているときでも、男は芸術家のように、決して自分自身を失ってはいけないというのだ。これでは女を自分と対等の人間として認めることにはつながらない。

それなのになぜ男は女なしではいられないのか。この問いにボードレールは一切答えていない。ただやみくもに女を卑下するばかりなのだ。そんなところに現代の女性たちが反感を覚えるのは無理もない。

第一ボードレール自身、自分の生涯に女性の影を欠いたことはなかった。彼は人生のあらゆる時点において、自分の傍らに女性がいることを欲していたのだ。女は低級な生き物だと嘯きながら、彼はその女から快楽を盗み取り、そこから自分の詩想を引き出していた。もし身辺に女がいなかったなら、ボードレールの芸術家としての生涯もなかったはずだ。

そんなボードレールが相手にした女性たちは三つのタイプに分類される。ひとつは娼婦たちであり、ふたつ目はジャンヌ・デュヴァルであり、三つ目はサバティエ夫人のような高級娼婦というべき女たちだった。

ボードレールは十代の若い頃から死期が迫るまで、実に多くの娼婦を買っている。無論一時の快楽のためであり、満足が得られると、こともなげに捨ててしまった。その代償として淋病や梅毒のような病気をもらうこともあったが、他方では彼女たちをテーマにさまざまな詩を書くことが出来た。ボードレールの詩にはいきずりの女や乞食女まで登場するが、それらはみな一夜をともにした女たちの面影のようなものなのだ。

ジャンヌもやはり娼婦といってよいような女だった。ボードレールと一緒に暮らしながら、他の男と寝ることもあったらしいが、それはボードレールの財布の中が空っぽになったことの、やむを得ぬ結果だったかもしれない。ボードレールがなぜこの女をあれほど愛したかについては、改めていう必要もないだろう。ボードレールはこの女の中のあらゆる悪徳を引き受けながら、彼女から快楽を引き出していたのである。自分は傷つくことなく。

サバティエ夫人やマリー・ドーブランのような女性は、ジャンヌや娼婦たちとは明らかに異なっていたが、ボードレールは結局彼女たちとも心を許しあう関係にはなれなかった。その点で娼婦の延長としての女でしかなかったといえる。

彼が生涯に付き合った女性たちのタイプからわかるとおり、ボードレールは自分の相手をしている女たちを、一度として自分と対等の存在と思った形跡がない。彼は女といっしょにいるときは、常に芸術家として振舞った、つまり自身の殻から抜け出ようとはしなかったのである。


関連サイト:ボードレール Charles Baudelaire





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このページは、が2010年4月 2日 21:13に書いたブログ記事です。

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