ジュリアス・シーザー Julius Caesar:シェイクスピアの悲劇

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ジュリアス・シーザー Julius Caesarは、シェイクスピアの作品の中でも、エポックメーキングな位置を占めるものだといえる。

シェイクスピアの創作活動を大雑把にたどると、まずイギリスの王朝を舞台にした一連の歴史劇から出発し、ルネサンスの祝祭的な雰囲気につつまれた喜劇をはさんで、四大悲劇を中心とした悲劇の時代が訪れる。ジュリアス・シーザーという作品は、ヘンリアード Henriad と呼ばれる歴史劇とハムレットを初めとした四大悲劇との狭間にあって、その両者のテーマをつなぐ役割を果たしている。

シェイクスピアの初期の歴史劇にあっては、巨大な運命に翻弄される王たちがテーマになっていた。

ヤン・コットもいうように、シェイクスピアの歴史劇の思想を貫くのは運命というものの巨大な力である。運命とは言い換えれば歴史に内在する必然性である。この必然性を前にして、個人は、たとえ王であっても、その力に屈服せざるをえず、したがって一人の人間としての個性を主張することはできない。

どの王も、運命の歯車に過ぎないのであり、そのようなものとして、みな同じような顔つきにならざるを得ない。

一方歴史の必然性とはシェイクスピアにとっては、前へ前へと進んでいくリニアな動きではなく、同じことを繰り返す円環運動として捉えられる、歴史は進歩するのではなく、循環するのだ。

したがって歴史とは王の個性を反映しながら前へ前へと進んでいくものではなく、同じような顔つきの王たちが入れ替わり立ち代り現れながら、結局は同じことを繰り返すに過ぎないものだった。

これに対してハムレット以降における悲劇作品においては、運命ないし必然性というものと個人との関係をめぐる解釈に、あるスタンスの変化が現れる。

ハムレットにせよ、リア王にせよ、マクベスにせよ、悲劇の主人公たちはそれぞれ自分の顔を持っている。彼らは自分自身の顔を持つだけではない。自分の意思で自分の運を選び取る。それが自分にとって有利に働こうと、あるいは不利に働こうと、自分の意思で選んだからにはその結果もいさぎよく引き受ける。この個人としての主体性の主張が、歴史劇には見られなかった、悲劇作品の最大の特徴といえる。

シェイクスピアのこのようなスタンスの変化には、どのような背景があったのか、興味深いところだ。彼が歴史劇の作者として出発したのは、当時の観客の演劇に対する嗜好に答えたからであったとするのがもっともわかりやすい解釈だ。だいたいどの国のどの時代のどの観客も、自分の国の歴史には興味を示すものだ。だから歴史上の出来事を出し物にしている限りでは、興行的には一定の成功が期待できる。

シェイクスピアは歴史劇に続いて喜劇を書くようになったが、これもまた当時の観客の興味に答えたという面が強い。シェイクスピア時代の観客は、まだ中世の文化的伝統の延長線上で生きており、あわせてルネサンスの開放的な気分にひたっていた。そうした観客にとって、祝祭的な気分があふれる喜劇は、馴染み深いものだったのだ。

歴史劇と喜劇とは、一面で相容れないように思われるところがあるが、イギリスの伝統的な文化の土壌に根ざしている点では根を同じくしている。基本的には、どちらも型にはまった定型的な世界観を背景に持っている。

シェイクスピアは、歴史劇や喜劇を書いているうちに、定型的な世界観にたった物語の組み立てに次第に不満を感じるようになったのではないか。

歴史というものはたしかに、巨大な必然性によって怒涛のように動かされている面はある。そこに生きている人間は、基本的には、歴史の勢いによって動かされ、飲み込まれ、究極的にはそこから自由ではありえない。

だがそれでも、個人にはそれぞれの顔がある、それぞれに自分なりの考えがある。それは歴史の必然性をひっくり返すほど強くはありえないが、それでもなお、個人のその個人としてのかけがえのなさは認めることもできる。

シェイクスピアがハムレット以降の悲劇の中で描いたのは、この個人の人間としての生き方だったのではないか。

ハムレットがリチャード三世と違うところは、リチャードの意思が歴史の必然性を反映しているに過ぎないのに対して、ハムレットの意思がその必然性と抗ってまで自分を貫き通そうとするところにある。つまり個人がかけがいのない個人として舞台の前面に踊りだしているところが、シェイクスピアの悲劇がそれ以前のどんな演劇的な伝統とも断絶したところなのだ。

ジュリアス・シーザーという作品は、シェイクスピアの作品の中で、この主体的な個人が登場する始めての作品なのである。だからそれはハムレット以降の悲劇に直接つながるものだといえる。この作品がエポックメーキングだといった理由はそこにある。

シェイクスピアが歴史に対して主体的な人間をはじめて描こうとするにあたって、ジュリアス・シーザーを題材に取り上げたことには、それなりの理由があったと思われる。

ジュリアス・シーザーは言うまでもなくローマの英雄であるとともに、ローマの政治体制を民主制から君主制に切り替えた人物でもある。その政治的な評価をめぐっては古来さまざまな議論があった。一方ではローマが世界帝国へと発展していく礎を築いた英雄だとする見方があり、他方ではローマの民主的な伝統を破壊して絶対君主制に道を開いた暴君だとする議論である。

この相対立する見方の間の論争は、すでにローマ時代から続いており、シェイクスピア時代のイギリスにあっても定説というべきものは確立されていなかった。どちらの見方も、ジュリアス・シーザーという人間をどう捉えるか、つまりその人間性を、評価の基準にしていた。彼の野心を過大に見るものは彼の暴君としての側面を強調し、彼の公正さを過大に見るものは、彼を悲劇の英雄として改めて強調した。

シェイクスピアはこの作品の中で、どちらかというと、ジュリアス・シーザーの野心を批判しているように受け取れる。その批判はキャシアスやブルータスなどの共和派の人物たちの口を通して表明される。この劇では、主人公たるシーザーやその支持者たるアントニーより、ブルータスらの言葉のほうが重みを持たされているくらいだ。

そんなところからこの劇はジュリアス・シーザーを共和制の敵として位置づけているのではないかという解釈も成り立つ。だからこの劇の本当の主人公はシーザーを倒したブルータスであるという見方も成り立つ。

実際劇の中では、シーザーはごく表面的な行動しかしないのに対して、ブルータスはいたるところで人間臭さを発揮する。ブルータスはハムレットの先駆者といえるほど、人間としての存在感を示しているのだ。


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