浄瑠璃が人形遣いと結びついて操り浄瑠璃となり、ひとつの盛期を迎えたのは慶長年間のことである。その折の様子を「東海道名所記」が次のように書いている。
「浄瑠璃はその頃(慶長年間)、京の次郎兵衛とかやいふ者、後には淡路掾と受領せし、西の宮の夷かきを語らひ、四条河原にて鎌田の正清がことを語りて、人形を操り、その後がうの姫、あみだのむねわりなど言ふ事をかたりける。」
東海道名所記は浅井了意が万治年間(1658-1661)にあらわした仮名草紙、浄瑠璃の歴史にも言及しているもので、古浄瑠璃の研究にとって貴重な資料を提供するものである。
これによると、それまでもっぱら語りを主体としていた芸能が、慶長年間に操り人形と結びつくことで、演劇的な要素を含むようになった事情がわかる。操浄瑠璃の誕生である。
だが操浄瑠璃が本格的になるのは寛永年間のこと、三台将軍家光の時代になってからである。
先の引用文の中で言及されている「鎌田の正清がこと」とは浄瑠璃の中でももっとも古いといわれる「鎌田」という作品をさしている。これは平治物語の中の源義朝と鎌田正清の最期に題材をとったもので、正保2年(1644)に刊行された江戸七郎左衛門の正本が残っている。阪口弘之氏の考証によれば、その内容は大頭系の舞曲とほぼ同じようなものだという。
この作品に限らず、寛永、正保期の浄瑠璃の多くは、他の語り物の系列、とりわけ舞曲から援用したものが多かったらしい。舞曲はまた舞々ともいって、舞とはいいながら語りを主体とすることは説教と異ならなかったが、説経よりもやや演劇的な要素が強かった。その点で、人形操りと結びついた浄瑠璃にとって援用しやすい要素を持っていたのだろう。
浄瑠璃の本流をなした曲としては、浄瑠璃御前物語のほかにいくつかの作品が生み出されていたらしいが、寛永年間になって人気が高まるとともに、レパートリーの不足を補うため周辺の芸能分野から盛んに取り込んだ様子が伺える。
その寛永期に、操浄瑠璃は三味線とも結びついて、芸能として一段と進化した。それまでは盲僧などの貧相な語り手が往来の上で筵を敷いて民衆に語りかけていたものが、この時代になると小屋掛けした舞台で演じられるようになる。それにともなってますます演劇的な色彩を強くしていく。
こうして演劇的な要素を強めた浄瑠璃は、同時代の芸能をリードしていくようになる。そうこうするうち、金平浄瑠璃という創作的な要素の強い浄瑠璃が生まれ、それに続いて世話物を始めとした創作が花咲く近松門左衛門の時代を迎えるのである。
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