9年目を迎えた今年の9/11、オバマ大統領も参列して、「我々は、共通の理想によって結ばれた一つの国であり、一つの国民だ」と訴えたが、その言葉が逆説的に暗示しているように、今年の9/11は、今までとは異なった異常な雰囲気のもとで迎えられた。
というのも、フロリダのキリスト教会の牧師テリー・ジョーンズが、9/11を「コーランを燃やす日」に指定し、全米のキリスト教徒が一斉に答えるよう呼びかけたところ、それが大きな反響を呼んだからだ。
結局、ジョーンズ牧師は、二転三転した挙句、この計画を撤回した。こんなことがアメリカでもし実施されたならば、アメリカ人とイスラム教徒の間に超えることのできない溝が生じ、そこから新たな憎しみの応酬が生まれたことだろう。
田舎の小さな教会の指導者の、あさはかな考えがこんな大きな反響を呼んだことの背景には、アメリカ人のイスラム教に対する不寛容が、最近急速に深まっている事情がある。
その不寛容を助長したのが、グラウンド・ゼロと呼ばれる旧世界貿易センタービルの跡地の近くに、イスラムのモスクを建設しようとする計画だ。モスクの建設自体は、アメリカ社会におけるイスラム教徒の増大に伴って、方々で推進されてきたことだ。それが社会に亀裂を生じさせるほど大きな問題になったことは、これまでは、基本的にはなかったといってよかった。
だがグラウンド・ゼロの近くにモスクを建設するのは、ちょっとやめてもらいたい、なぜなら、グランドゼロで死んだ人は、イスラム教徒によって殺されたではないか。そのイスラム教徒のシンボルともいえるものを、グラウンドゼロの近くに建設するのは、アメリカ人の心の中に、土足で踏み入るような行為だ、こういう感情が、アメリカ人の拒否的な反応をもたらしたのだといわれる。
教養あるアメリカ人の中には、こうした反応が非合理だということはわかっていながら、それを一概に否定できないと思っているものもある。そういう人は、こんな屁理屈を自分に向かって言い聞かせる。
「すべてのイスラム教徒がテロリストであるわけではない、そんなことはわかっている、だがすべてのテロリストはイスラム教徒だ、だからこの世からイスラム教徒がいなくなれば、テロリストもいなくなるはずだ」
これは不寛容の精神そのものを物語っている言葉だ。こんな精神が幅を利かしたことは、これまでのアメリカの歴史で、あまりなかったことだ。それが今こういう形で強まっているということは、アメリカ社会の中に、閉塞感のようなものが瀰漫していることを、物語っているのかもしれない。(上の写真:AFP提供は、ジョーンズ牧師の運動に激しく反発するインドネシアのイスラム教徒)
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