カトゥィンの森の虐殺 Katyn Forest Massacre:ロシア議会がスターリンの関与を認める

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1940年に起きた、スターリン体制下のソ連によるポーランド人虐殺事件(通称カトゥィン Катын の森の虐殺)については、昨年(2009年)プーチンが正式にスターリンによる犯行であったことを認め、それを受けて今年の4月には、大規模な追悼式典が計画されて、ポーランドのレフ・カチンスキー大統領が現地に向かう途中、飛行機事故に遭遇して死亡したという経緯がある。

プーチンに続いてロシア議会もこの問題を取り上げ、スターリンの仕業であったことを重ねて認めた。

ただ、プーチンはこれをスターリンによる特異な犯罪であって、ロシア人全体の責任とするわけにはいかないといって、謝罪はしなかった。ロシア議会もまた正式な謝罪はしていないが、プーチンより一歩踏み込んで、ロシア人としてこの問題に一定の歴史的な総括をしたいという意欲を示しているようだ。

カトゥィンの森とは、ロシアの最西部スモレンスク Смоленск 近くにある森だ。この森の近くのグニェズドヴォ Гнездво 近郊の森の中で、1939年のポーランド侵攻でソ連によって捕虜になったポーランド将兵約1万人が、翌年の春虐殺された。ところがこの事件を、ソ連側はドイツ軍によるものだったとして、長い間自らの責任を認めようとはしなかった。共産党政権時代のポーランドも、ソ連に気兼ねして、追求しようとはしなかった。

東欧の社会主義体制が崩壊すると、この問題が取り上げられるようになり、ついにはプーチンが歴史的事実として認めざるを得ないまでになったわけである。

今のところ、この問題を材料にして、ロシアとポーランドの間に、新たな対立の火花が散るような事態は起きていない。それどころか、来年に予定されているメドヴェージェフのポーランド訪問にむけて、両国の和解ムードが演出されているくらいだ。

だが長い目で見れば、こうした歴史的な事実の解明が、すでに起きてしまった歴史的出来事を考え直させるきっかけになることはある。

ソ連がポーランド将兵を虐殺した背景には、領土問題を巡るソ連とポーランド人との深い対立があったと解釈する見方もある。将来ドイツ領の一部をポーランドに与える見返りに、ポーランドの東側の大きな部分をソ連に割譲するという提案に、ポーランド側が激しく反発したことと、深いかかわりをもっていたとする見方だ。

ソ連はドイツとの密約をもとに、1939年にポーランドに侵攻したわけだが、その結果当面は、ポーランド領土をドイツとの間で分け合う形になった。第二次大戦終了後も、侵略の分け前として手に入れたポーランド領土を完全な形で返還することはなかった。勝者としての驕りが、そのような暴力的な領土併合を合理化させたわけだ。(上の写真は犠牲者の名を記した碑文:AFP提供)


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