ヴァイオラに双子の兄がいることは、劇のはじめのシーンから暗示されており、また劇の中間でも、その兄であるセバスティアンが登場するシーンがあるが、彼の存在は、劇全体の進行にとって本質的な重要性を持たない。また性格らしい性格も持たされていない。ただ単に、ヴァイオラに瓜二つであることが、唯一の存在意義であるかのように。
オーシーノ公爵:ひとつの顔 ひとつの声 ひとつの仕草を
二人で分け合っているというのは どうしたわけか(5幕1場)
DUKE ORSINO:One face, one voice, one habit, and two persons,
A natural perspective, that is and is not!
この兄妹がここまで似ていることは、劇にとって必然的な要請といえる。そのことは、ヴァイオラの変装に淵源している。
ヴァイオラは少女から青年へと変身している。彼女がなぜ変身しなければならなかったのか、それにはさまざまな解釈があるが、そもそもこの劇がカーニヴァルの劇である限り、変身は内在的な要請に従ったまでの行為だと考えることもできる。
ともあれ変身したヴァイオラを巡って、微妙な関係が生じてくる。ヴァイオラを青年と勘違いしたオリヴィアはヴァイオラに激しい恋の炎を燃やすし、そのオリヴィアに恋心を抱いたオーシーノ公爵は、オリヴィアに振られたことをあきらめる代償として、女としてのヴァイオラと結ばれる。
この構図からは、ヴァイオラが男女両性を演じていることの無理が見て取れる。ヴァイオラは二つの性の間で、分裂させられているわけである。だからその分裂を解消しようとすれば、分裂した片割れをもう一つの実在の人格に担ってもらわねばならない。そこが、双子の兄が登場すべき理由なのだ。
その双子の兄が現れたとき、オリヴィアはてっきりヴァイオラだと思って、さっそく彼と恋のアヴァンチュールを楽しむ。つまりセックスをする。セバスティアンは男に化けたヴァイオラと違って本物の男であるから、本物の女であるオリヴィアとセックスができるわけである。
しかしその前に、なぜオリヴィアがセバスティアンをヴァイオラと取り違えたかをよく考えてみる必要がある。いくら双子の兄妹で、顔つきが瓜二つであるといっても、男と女とでは、おのずから差異があるものだ。ところがオリヴィアにはその差異が見えなかった。
つまりヴァイオラが青年に見える少女であるのと同じような感覚で、セバスティアンも少女に見えるような青年であったわけだ。双子の兄妹は、そのどちらも、厳然たる性の刻印をされた人格というより、性差のあいまいな両性具有的な存在として描かれているわけである。
アントニオ:いったいどうやって 半分づつに分けられたのだ?
真っ二つにされたリンゴの片割れでさえ
きみたちのようには似通っていないぞ(5幕1場)
ANTONIO:How have you made division of yourself?
An apple, cleft in two, is not more twin
Than these two creatures.
オリヴィアはセバスティアンが少女のように見えたからこそ、彼をヴァイオラと勘違いしたわけだ。ということは、オリヴィアは恋の相手に女性的なものを求めていたと解釈できないわけでもない。
一方、セバスティアンを助けた船長のアントニオも、セバスティアンの女性的な、あるいは少年のような性格に対して、恋をしてしまったのかもしれない。
セバスティアンとヴァイオラの双子の兄妹は、そのどちらもが、男であっても、女であっても差し支えないような構図になっている。つまり、兄妹の二人とも、男女両性の役割を、いつ取り替えてもいいような具合になっている。彼らには画然とした性の分担は意味がないようなのだ。だがそれこそはカーニヴァルの精神であり、十二夜のお祭りにふさわしいともいえる。
関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト
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