左衞門尉平致經、明尊僧正を導きし語(今昔者物語集巻二十三)

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今は昔、宇治殿が関白としてときめいておられた頃のこと、三井寺の明尊僧正は御祈のお供としてつとめていたが、殿は一向に灯明をともすようにお命じになられなかった。というのも暫くしてから僧正を使いにやるつもりでいたのを、まだ誰も知らなかったのである。

此の僧正に、遣いをして夜の内にまた帰ってくるように命じられ、厩から、物怖じをしない確かな馬を選び出し、それに鞍を置いて、
「伴をするものはおらんか」と尋ねさせると、
左衞門尉平致經(むねつね)というものが、「致經なむ候ふ」と申し出た。

殿は「よいよい」と仰せられると、其の時は此の僧正は僧都であったので、
「此の僧都、今夜三井寺に行って、すぐに立ち返り、夜の内に帰ってくることになっておるので、たしかに伴をせよ」とおっしゃった。

致經は普段から、宿直處に弓・胡録を立て、藁沓と云う物を一足畳の下に隠し、お供の下男を一人ひかえさせるばかりであったので、それを見る人は、「頼りないことよ」と思ったほどであった。

致經は命令を聞くままに、袴の括高く上げて、隠しおいてあった藁沓を取り出して履き、胡録を背負って、馬を引いてある所に立つと、僧都が出てきて、「お前は誰だ」と聞くので、「致經」と答えた。

僧都はその様子をみて、
「三井寺へ行こうというのに、まるで歩いていくような格好ではないか、お前の馬はないのか」といった。すると致經は、
「たとえ歩いてでも、決して遅れはとりませぬ。早くお立ちなされ」と答えた。

僧都は、「ずいぶんおかしなことだ」と思いながら馬に乗り、火を前に燈させて、七八町ばかり行くと、向こうから、弓箭を帯した黒っぽい格好のものがやってきた。僧都はそれを恐れながら見ていると、そのものどもは致經の前に突っ立ったのであった。

「御馬候」といって引き出した馬は、夜のこととて何毛とも見分けがつかない。致經が藁沓を履きながら鐙にまたがって馬を進めると、胡録を負って馬に乘った者が二人ついてきた。不思議に思いながら前へ進むと、亦二町ばかりして、先ほどと同じようなものが二人現れた。

今度は、致經も従者らも何もいわず、馬に乗ったまま進んでいった。僧都は、「此れも郎等たちだ、それにしてもすごい連中だ」と思っているうち、また二町ばかり行ったところで、同じような光景が繰り返された。

致經は何ともいうことなく、郎党たちも無言のまま、同じような光景が更に繰り返された結果、川原を出る頃には三十人にもなった。僧都はこれを見て、不思議に感じているうち、早くも三井寺に着いたのだった。

僧都は仰せつかった用事をすませると、夜のうちに帰ろうとした。するとこの郎等たちは、先ほどの川原まではずっとついてきたのだった。

京に入ってから後は、郎等たちはそれぞれの出現したところで二人づつ止まっていなくなった、そのため帰る頃には最初に出てきた郎等二人だけが残った。

乗馬したところで馬から下り、履いていた沓も脱いで最初の姿になると、残った二人もいなくなり、下男一人だけが付き従って門の中に入った。

僧都はそれをみて、馬も郎等たちも、一糸乱れず行動するのに感心した。
「このことを是非殿に申し上げよう」と思って参上すると、殿はまだ寝ずにおられたので、僧都は、今夜垣間見たことを残さず報告したうえで、
「致經は奇異しく候ひける者かな、「極じき者の郎等随へて候ひける樣かな」と申しあげた。

殿はこれをお聞きになって、興味をお示しになるかと思えば、何のこともなく過ごさせ給うたので、僧都は拍子抜けがしたのであった。

この致經は、平致頼と云う兵の子である。心猛くして、世の人にも似ず、殊に大きな箭でも射るので、世の人はこれを大箭の左衞門尉と云ったそうである。


今昔物語集巻二十三は、別名を強力譚というように、男女をとわず、実力でならした人物たちの物語だ。ことがらからして、当時新興階級として実力を蓄えつつあった武士階級の人間たちが中心になるが、それにとどまらず、女や相撲取りなど、力自慢のものの物語も含まれている。

武士にスポットライトを当てた一連の物語は、巻25にまとめられている。

左衞門尉平致經の武勇を巡るこの物語は、武士の武勇譚ともいうべきもので、その意味では巻25にあってもおかしくないのだが、内容が単なる武勇譚の範疇を超えて、武士というものの不気味な力強さを描いているところが、あえてこの巻に入れられた理由であろうと推測される。

平安末期になると、武士たちが新しい時代の先駆けとして、頭角を現しつつあった。彼らはもともと天皇家や藤原氏の用心棒として登場したのであるが、次第に実力を蓄え、ついには貴族政治を打倒して、武士による政権を樹立するに至る。

そんな武士たちのもたらした文化は、藤原氏を中心とした貴族文化とは、まったく異なっていた。実力だけがものをいう、飾り気のない文化だったといってよい。

そうした新しい文化の在り方を、当時の支配者であった貴族たちは、複雑な目で見ていた。一方ではその野卑なところを軽蔑しながら、他方ではその強さに恐れのような感情を抱いていたと思われる。

今昔物語集には、そんな貴族の立場から武士の有様を感じとったと思われるような説話がほかにもいくつか収められている。

この説話に出てくる平致經は、そうした新しい人物像としての武士の典型のような人物として受け止められていたに違いない。彼は主人の命令を淡々と実行する。そこには無駄な計らいは一切ない。ただ最低限必要なことを行いながら、坊主の護衛を完璧にこなすのみだ。致經も彼の家来たちも、その目的に向かって一糸乱れぬ行動をするが、それは目的の実現にとって、必要最小限のことをしたに過ぎない。

ところが旧来の貴族文化にどっぷりつかってきた坊主にとっては、それがいかにも新鮮なことに思われたのだ。

この説話は、そんな新旧それぞれの文化に生きる人々の間で起きた、感情のすれ違いのようなものを描いているといってよい。


 今は昔、宇治殿の盛に御しましける時、三井寺の明尊僧正は御祈の夜居に候ひけるを、御燈油參らざり。暫く許有りて何事すとて遣すとは人知らざりけり。俄かに此の僧正を遣して夜の内に返り參るべき事の有りければ、御厩に、物驚き爲ずして、早り爲ずて慥かならむ御馬に移置きて將て參じて、召して、侍に、「此の道に行くべき者は誰か有る」と尋ねさせ給ひければ、其の時に左衞門尉平致經が候ひけるを、「致經なむ候ふ」と申しければ、殿「糸吉し」と仰せられて、其の時は此の僧正は僧都にて有りければ、仰せ事、「此の僧都、今夜三井寺に行きて、軈て立ち返り、夜の内に此こに返り來たらむずるが樣、其こに慥かに供すべきなり」と仰せ給ひければ、致經其の由を承はりて、常に宿直處に弓・胡録を立て、藁沓と云ふ物を一足畳の下に隠して、賤しの下衆男一人を置きたりければ、此れを見る人、「か細くても有る者かな」と思ひけるに、この由を承はるままに、袴の括高く上げて、喬捜りて、置きたる物なれば、藁沓を取り出だして履きて、胡録掻負ひて、御馬引きたる所に出合ひて立ちたりければ、僧都出でて、「彼れは誰そ」と問ふに、「致經」と答へける。

 僧都、「三井寺へ行かむと爲るには、何でか歩より行かむずる樣にては立ちたるぞ、乘る物の無きか」と問ひければ、致經、「歩より參り候ふとも、よもおくれ奉らじ。只疾く御しませ」と云ひければ、僧都、「糸恠しき事かな」と思ひながら、火を前に燈させて、七八町許行く程に、黒ばみたる物の弓箭を帯せる、向樣に歩み來たれば、僧都此れを見て恐れて思ふ程に、此の者共致經を見て突居たり。「御馬候ふ」とて引き出でたれば、夜なれば何毛とも見えず。履かむずる沓提けて有れば、藁沓履きながら沓を履きて馬に乘りぬ。胡録負ひて馬に乘りける者二人打具しぬれば、憑しく思ひて行く程に、亦二町計行きて、傍より、有りつる樣に黒ばみたる者の弓箭帯したる、二人出で來たりて居ぬ。其の度は、致經此も彼も云はぬに、馬を引きて乘りて打副ひぬるを、「此れも其の郎等なりけり」と、「希有に爲る者かな」と見る程に、亦二町計行きて、只同じ樣にて出で來たりて打副ひぬ。此く爲るを致經何とも云ふ事なし。亦此の打副ふ郎等、共に云ふ事なくて、一町餘二町計行きて二人づつ打副ひければ、川原出で畢つるに三十人に成りにけり。僧都此れを見るに、「奇異しきしわざかな」と思ひて、三井寺に行き着きにけり。

 仰せ給ひたる事共沙汰して、未だ夜中に成らぬ□參りけるに、後前に此の郎等共打裏みたる樣にて行きければ、糸憑しくて、川原までは行き散る事無かりけり。京に入りて後、致經は此も彼も云はざりけれども、此の郎等共出で來たりし所々に二人づつ留まりければ、殿今一町計に成りにければ、初め出で來たりし郎等二人の限に成りにけり。馬に乘りし所にて馬より下りて、履きたる沓脱ぎて殿より出でし樣に成りて、棄てて歩み去れば、沓を取りて馬を引かせて、此の二人の者も歩み隠れぬ。其の後、只本の賤しの男の限、共に立ちて、藁沓履きながら御門に歩み入りぬ。

 僧都此れを見て、馬をも郎等共をも、兼て習はし契りたらむ樣に出で來たる樣の奇異しく思えければ、「何しか此の事を殿に申さむ」と思ひて御前に參りたるに、殿はまたせ給ふとて御寢らざりければ、僧都、仰せ給ひたる事共申し畢てて後、「致經は奇異しく候ひける者かな」と、有りつる事を落さず申して、「極じき者の郎等随へて候ひける樣かな」と申しければ、殿此れを聞食して、委しく問はせ給はむずらむかしと思ふに、何に思食しけるにか、問はせ給ふ事も無くして止みにければ、僧都支度違ひて止みにけり。

 此の致經は、平致頼と云ひける兵の子なり。心猛くして、世の人にも似ず殊に大なる箭射ければ、世の人此れを大箭の左衞門尉と云ひけるなりとなむ、語り傳へたるとや。


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このページは、が2011年1月19日 19:10に書いたブログ記事です。

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