邪馬台国を掘る:所在地論争の行方

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邪馬台国の所在地については、九州説と大和説との間で、100年にも及ぶ論争が繰り広げられてきた。いまでも決着したわけではないが、最近では九州説がやや有力になっている。吉野ヶ里遺跡の調査結果が、九州説に有利な証拠を出土してきたからだ。

そのうち重要な発掘はふたつある。ひとつは大規模な宮殿建築群の存在を裏付ける発掘だ。邪馬台国について記録した魏志倭人伝には、卑弥呼の王宮が居処、楼観、邸郭、城柵からなっていたと記述しているが、吉野ヶ里遺跡からそれに相当する建物群の遺跡が出てきた。大和地方からは、まだそういうものは出ていない。

二つ目は鉄製の剣が出ていることだ。鉄は三世紀頃の日本では、武器としては革命的なものだった。鉄を制する者が、あらゆる戦いを制したであろうことは、近世における鉄砲と同じような意味をもっていた。これが、九州でしか出てこないということは、邪馬台国九州説の大きなよりどころとなる要素だ。

こうした動きに、大和説のほうも、手がかりを求めて発掘作業を急いでいる。その中心は纏向遺跡だ。関西の研究者らが共同して、纏向遺跡からの出土品から、邪馬台国大和説の裏づけを求めているのだ。そんな様子をNHKのスペシャル番組が追跡していた。

昨年纏向遺跡から、巨大な宮殿建築の遺構が出てきた。300箇所にのぼる柱穴のあとから、19メートル×12メートルの巨大建築物の存在が確認された。この時期の建物としては破格の大きさである。ただこの建物の規模からだけでは、これが卑弥呼の居城だったという決定的な証拠とはいえない。

そこで更に発掘する過程で、面白いものが出てきた。土孔という特別の孔から、いのしし、水鳥、鯛、鯵などの骨、木製の刀剣、銅鐸の破片などと並んで、大量の桃の種が出てきたのだ。種の数は実に2700個にのぼる。研究者たちは、これらが祭祀のための供え物として使われたのではないかと推測した。

そこで卑弥呼がどのような祭祀を行っていたかが問題になる。魏志倭人伝の記述には、卑弥呼は鬼道を以て民を従属させたと記してある。この鬼道とはなにかというわけである。

番組は大量の桃の種に着目した。桃は中国では古来仙果として、道教の不老長寿の思想と深く結びついていた。その道教が宗教として体裁を整え始めるのは、漢代末期、つまり2世紀の後半である。卑弥呼が登場するのは2世紀の末から三世紀の始めであるから、中国で道教が普及する時期に重なっている。

つまり卑弥呼は道教の儀式を鬼道という形で取り入れ、鬼道の祭祀を取り仕切ることで、強大な権力の裏打ちを図ったのではないか、というわけである。

出土品の中には、青銅製の銅鐸の破片が見つかったが、これは簡単に壊れるものではなく、人為的な力で壊した可能性が高い。銅鐸というものは、基本的には弥生時代以来の呪術に用いられたものだ。その呪術とは日本の古代信仰の中核であったアニミズムやシャーマニズムに基づくものだ。銅鐸を意図的に壊すということは、卑弥呼が従来の伝統的な儀式を捨てて、中国風の儀式を意識的に取り入れたことを物語っているのではないか。

もしこの推測が正しいなら、卑弥呼を頂点にした邪馬台国政権は大和にあったということになる。卑弥呼は大和地方の一角に宮殿を構え、そこを根拠にして新しい国家作りに励み、統治のための精神的装置として、従来の呪術から中国風の儀式への転換を図ったのではないかという推論が、成り立たないわけではない。

それでも卑弥呼の政権は後の大和政権のような専制権力ではなく,諸部族の連合体であっただろうことは、魏志倭人伝の記すとおりだ。それを裏付けるように、纏向遺跡からは諸国の土器が多数見つかっている。これらは連合政権を構成する各地の権力者が、卑弥呼のいる大和に持ち寄ったのではないかと推測されるのだ。

しかしこの説は、卑弥呼に関する通説とだいぶかけ離れたところがある。いままでの通説は、卑弥呼はシャーマンだったとしているからだ。柳田国男などはその代表的なもので、シャーマンとしての卑弥呼が呪術で権力を支え、その夫あるいは男の兄弟が現世的な権力を行使したとする見方をとっている。折口信夫なども。卑弥呼のシャーマニズムに日本の神道の起源を求めている。

卑弥呼の鬼道が道教の流れの延長にあるとする説は、日本史のパラダイムの変換につながりかねない大胆な発想だ。(上の写真は纏向遺跡:NHK)


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このページは、が2011年1月25日 20:29に書いたブログ記事です。

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