東電の計画停電が始まってから5日目にあたる昨夜(3月18日)は、筆者の住む地区でも、夜間に停電することとなった。併せて筆者の通勤の足である東武野田線が、午後8時頃まで動かないという。夜間の停電と交通ストップが重なるのは、筆者にとっては震災発生後初めての事態だ。
そこで筆者は、勤務先の東京から自宅のある船橋の郊外まで、どうやって帰宅したらいいものやら考えた。一番簡単なのは、いつもの通り総武線で船橋に至り、そこから先は歩くことだ。だがよく調べると、船橋から筆者の家までの道筋も、ほとんど大部分は計画停電の対象地区に含まれている。だからまったく明かりのない道を歩かなければならない。これは鳥目である筆者にとっては非常に危険なことだ。
そこで、通勤途中の通貨駅の一つである本八幡駅でタクシーを捕まえることを考えた。船橋でよりは、多少は楽に捕まえることができるのではと、考えたのだ。
先日、地震発生の直後、筆者はこの駅でタクシーを捕まえようとして無駄な努力をしたのだったが、この日は簡単に捕まえることができた。本八幡駅のタクシーは、総武線と都営地下鉄新宿線が動いている限りは、そうたいした需要がないようだ。
こんなわけで、たいした苦労もなく家に帰ると、まだ停電は始まっていなかったが、やがて家じゅうが真っ暗になった。そこで蝋燭の灯りを頼りに、妻と二人で夕食をとり、電気が通じるのを待つことにした。
そのうち退屈して外に出てみた。おそらく咫尺も弁ぜぬほど真っ暗なのではないかと思っていたのだが、予想に反して外は明るかった。これなら鳥目の筆者でも十分足元が確かめられる。
明るいのは、月の光のせいだった。この夜は満月の前後に当たっていて、なおかつ雲もなく、月の光が夜を明るくしていたのだった。
筆者はこの月明かりを目にして、改めて月がもつ意味を見直したりしたものだ。
今の日本人は月を意識することはほとんどなくなってしまったが、明治時代あたりまでは、月の光は日常生活上大きな意味を持っていたものだ。あの荷風散人も、日記の中ではかならず毎日の月の満ち欠けを記録していたし、月の光をロマンチックに描いていた。それは人間に必要な光の源として、月が太陽に劣らず重要な意義を帯びていた時代の、余韻だったといってよい。
思いもかけぬ停電のおかげで、筆者はかつて月明かりの持っていた、そして今なお持っている意義について、改めて思い知らされた次第だ。
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