エズラ・パウンド(Ezra Pound)の生涯と作品

| コメント(0) | トラックバック(0)

エズラ・パウンド(Ezra Pound,1885-1972)は、第二次世界大戦中にムッソリーニのファシズムを熱狂的に支持し、反ユダヤ主義的な立場からアメリカを攻撃したことを問われ、戦後アメリカ政府から反逆罪で起訴された。結局彼は正式な裁判にはかけられなかったが、精神障害を認定され、13年間にわたって、ワシントンDCのセント・エリザベス病院に監禁された。

こんなことがあったために、エズラ・パウンドの評価を巡っては、一時非常に厳しい意見があった。どう控えめに見ても、パウンドの思想は伝統的なヒューマニズムからかけ離れているし、また彼の文学的な業績、とりわけダンテの神曲を思わせるその長大な詩編群(Cantos)は、非常に難解で、普通の読者の理解力を越えていたためである。

しかし時間の経過とともに、政治的ないきさつは次第に背景に退き、今日活字の形で残されている彼の作品が、それ自体として読まれるようになるにつれ、パウンドの評価は次第に高まってきた。今日ではパウンドを、20世紀前半を代表する偉大な詩人のひとりとして評価するのが普通である。

パウンドを評価するに際しては、いくつかの視点がある。ひとつはモダニズムの推進者としてのパウンド、一つは中国や日本文学の翻訳を通じて、西洋詩のなかに東洋的なものを融合させ、全体としての詩のあり方に大きな変化をもたらしたこと。もうひとつは、100篇以上にも上る長詩編Cantosに象徴されるような、詩の新しいあり方の模索である。

モダニズムの推進者としてのパウンドは、客観的にみて誰もが否定しえない巨大な影響を誇っている。イマジズムやヴォーティシズムといった運動を通じて、20世紀の詩を19世紀以前のものから決定的に隔てる上で革新的な役割を果たしたのはパウンド自身だったし、ジェームズ・ジョイス(James Joyce)、ウィンダム・ルイス(Wyndham Lewis)、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ (William Carlos Williams)といった20世紀を代表する詩人たちに巨大な影響を与え、またE.S.エリオットを世に送り出したのもパウンドだったといってよい。

パウンドが詩の革新の上で武器としたのは、極端に圧縮されたイメージを短い言葉で表現するやり方だった。パウンドはそれを日本の俳句などの短詩から学んだと自ら言っている。彼の初期の作品を代表するとされる「パピルス」や「地下鉄駅にて」などは、わずか2行乃至3行からなる、それこそ短かすぎる詩形であり、しかも意味がないと思われる言葉を混ぜながら、豊かなイメージを紡ぎだすことに成功している。まさに英語で書かれた俳句というべきものだ。

パウンドはまた、日本の短詩とともに、中国の古典、特に詩経と李白を好んだ。ただ単に読むばかりでなく、それらを英語に翻訳しさえしたが、その翻訳は単に意味を移すというにとどまらず、翻訳の形をかりて、パウンド独自の世界を作り出す営みが盛られていたともいえる。

パウンドが最初の詩集「消えゆく光」を刊行したのは1908年のことだが、1926年には、それまでの創作の集大成を刊行し、それに第三詩集「ペルソナ」と同じ題名を付した。それには詩と並んで、詩経や李白の詩の翻訳(Cathay)も含まれていた。

パウンドが長詩編キャントーズを初めて書いたのは1925年頃のことだ。その年パウンドは16篇の詩編草稿を書いたのだが、それはホメロスの「オデュッセウス」とダンテの「神曲」を強く意識していたといわれる。主題としてはオデュッセウスの放浪、構成的には神曲の方法を借りようとしたのである。

だがダンテの神曲と違って、これらの作品は有機的につながった統合的な作品とは言えないものだった。ひとつひとつの作品も、完成されたものの持つ美しさとは無縁といってもよかった。荒々しい感性がむきだしに示されているといってよい。短詩系を書いていた頃から、パウンドは完成よりも破壊を好むたちの詩人だったのだ。

人生後半の時期のパウンドは、詩人としては、中国の詩を独自の方法で翻訳する一方、キャントーズを書き続けることに執念を燃やした。1948年に出版した「ピサ詩編」は、アメリカ軍にとらえられ、ピサの収容所に入れられていた時期に書かれたもので、キャントーズの中でももっとも迫力あるものである。

晩年のパウンドは60歳を過ぎて精神病院に監禁された。その期間は13年間に及んだが、病院長の配慮によって比較的自由にふるまうことを許され、ピサ詩編をはじめ、執筆活動を続けることができた。

パウンドは13年間の監禁生活ののち、1958年に釈放されたが、それはヘミングウェー、T.S.エリオット、フロストらのねばりつよい運動の成果だった。

釈放されるとパウンドはイタリアに戻り、そこで静かな晩年を過ごした。彼の最後の言葉は次のようなものだった。

「私はもう何も書かない。何もしない。私は冬眠する。そして、静かに瞑想するのだ。」(雑誌「エポカ」のインタビュー:城戸朱里訳)


関連サイト:英詩と英文学





≪ 今よりもっと愛する The More Loving One:W.H.オーデン | 英詩のリズム | 木 The Tree :エズラ・パウンド ≫

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/3173

コメントする



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

この記事について

このページは、が2011年5月19日 18:59に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「言問橋:橋の水彩画」です。

次のブログ記事は「フランス人は何故ストロスカーンに同情的か」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。