菅総理にも、時には重大な局面に立ち向かってリーダーらしい決断ができることもあるんだな、そう思ったのは筆者だけではあるまい。浜岡原発の全面停止をめぐる、菅総理の決断のことだ。
浜岡原発の危険性については、これまで中部電力と地元との間で深刻な争いの的となってきたし、筆者もこのブログで取り上げたことがある。今回前代未聞のカタスロトーフに見舞われた福島原発と比較しても、浜岡原発はいつそれと同規模の災害に見舞われてもおかしくないほど、深刻な危険性にまとわりつかれていた。
そのことを真摯に受け止めれば、浜岡原発の一時全面停止を要請する菅総理の今回の決断は、当然のことといえる。
総理の要請に対していまのところ、中部電力側は最終的な判断を保留しているようだ。その間に、原発推進勢力による巻き返しがなされ、電力不足が国民生活にどんな深刻な影響を及ぼすか、またこうした決定が安易になされることによって、日本の産業がどれほど取り返しのつかぬダメージを受けるか、こんなことがらが広範に議論され、そのなかから菅総理の決断に対して疑念が湧きあがってくるのを期待しているフシもある。
だが浜岡原発が抱えている特別に危険なファクターを勘案すれば、浜岡原発はとにかく一時停止して、安全対策に万全を期してもらいたい、こう思うのが自然な筋道というべきだろう。
浜岡原発が停止されることによって、国民の間で反原発感情が高まり、ほかの原発も全面停止に追い込まれるのではないか、そういう懸念もあるが、それはそれで冷静な議論をすればよい。原発の災害耐性に関しては、原発ごとに事情の違いがあり、一律に片づけることはできない。
ドイツのように国内の原発を十把一からげに停止したままにするというのは、違った次元の判断が働いた結果だ。日本は日本の事情があるのだから、何もそのまねをする必要はない。
だが原発ごとにその安全性を点検し、福島のような事故が二度と起こらないように努めるのは、当然のことだ。その過程で、安全が確認されるまでは、一時停止するというのは、危機管理の在り方として、当たり前のことだ。
その当たり前のことができないのでは、安全を云々する資格はない。菅さんはその当たり前のことをしたまでのことなのだ。
浜岡原発の全面停止によって、どれほどの影響がでるのかは、今後真剣に議論して、国民をあげてその対策に取り組めばよい。その議論を抜きにして、やれ国民生活が深刻な影響を蒙るだの、やれ産業界が致命的な打撃を蒙るだの、その結果日本の企業は海外に生産拠点を移さざるを得ないなどと、脅しに似たようなことを声高にいうのは、人間としての品性に欠けたやり方だといわざるをえない。(写真は毎日新聞から)
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