写楽の正体:能役者斎藤十郎兵衛説

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謎の画家東洲斎写楽の正体は北斎でも歌麿でもなかった、写楽はほかならぬ写楽自身だった、こんな説が専門家の間でほぼ確定的になった。その内幕をNHKの最新の番組が明らかにしていた。題して「浮世絵ミステリー:天才絵師の正体を追う」

写楽研究急展開のきっかけになったのは、2008年にギリシャの美術館で発見された写楽の肉筆画だった。(写真の扇絵)これを分析した研究者たちは、この肉筆画が写楽自身のもので、版画からはうかがうことのできない、写楽の創作の特徴を知ることができるという。

もっとも参考となるものは、線の引き方と筆の運び方だ。耳を五本の線で書き表すなど、写楽には独特の癖があった。また線を引くときに、一気に引くのではなく、短い線を重ね合わせるようにして、長くしていくという独特の方法を取っている。

こうした写楽の癖を念頭に置きながら、北斎や歌麿をはじめ、いままでに写楽ではないかと疑われた有名画家と写楽の絵を、筆使いという側面から比較してみたところ、どれも一致していなかった。北斎の線は一気に引いたもので非常に伸びやかな感じがする、また歌麿の線も一気に引いたもので繊細なラインが特徴だ、これらに対して、写楽の線はどことなく無骨な印象を与える。やはり北斎らに比べると、写楽は素人らしさを感じさせるのだ。

ほかの画家にも、写楽と断定できるような共通性を指摘できるものはなかった。この結果、写楽を有名画家の仮の姿とする説は、いずれも退けられた。

ここから、写楽という画家は、ほかの誰でもない、写楽自身だという確信が研究者の間に強まった。だがその正体はいったい誰なのか、という疑問が当然わく。徳川時代に作られた絵師たちの人別帳には、必ず本名が記されているのに、写楽だけはそこのところが空欄になっている。いったい何者なのか。

従来写楽の正体をめぐっては、有名画家説のほかに、版元の蔦屋説と能役者斎藤十郎兵衛説があった。

蔦屋説が起こったのは、写楽の浮世絵のすべてを蔦屋が板行した事実に基づく。当時の浮世絵師は複数の版元と関係するのが普通で、写楽のように一人だけが請け負ったというのは例を見ない、こんなことを根拠に蔦屋自身が写楽の絵の作者などではないかとの憶測が生じたのだが、これは、写楽が描いた別の肉筆画が蔦屋の死後に書かれたことが明らかになったことで、立ち消えになった。

残るは能役者斎藤十郎兵衛説だ。この説を始めて唱えたのは、『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑だ。1844年に記した『増補浮世絵類考』に、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」であると記してあるのがそれだ。この説は、余り面白みがなかったのか、省みられることが少なかった。

そこで今回、研究者たちが虚心坦懐に写楽と十郎兵衛の接点を探ってみたところ、いろいろなことがわかった。決定的なのは、東洲斎写楽という号のなかに、斎藤十郎兵衛という名がアナグラムとして組み込まれていることだ。「さい」、「とう」、「じう」を一旦分解して、それを「とう」、「しう」、「さい」と並べ替えれば、「東洲斎」になる。「写楽」は遊び心からつけたのだろう。

これで写楽の正体がわかったわけだが、はたしてその斎藤十郎兵衛というのはどんな人物だったのか。

斎藤月岑がいうとおり、阿州侯の能役者だったが、いわゆるシテ方ではなく、ワキ方の、しかもツレ専門の家柄だった。ワキツレといえば、ワキと一緒に舞台の始めに出てくるだけで、その後はワキ座に控えたまま、舞はおろかせりふをしゃべることもほとんどない。ワキ役もいいところで、演技もへったくれもない。

こんなわけで、斎藤十郎兵衛は自分の能役者としての人生に屈託を感じていた、その屈託を晴らすものとして、役者絵の世界に足を入れた、こういう推測が成り立つだろうというわけだ。

写楽が活躍したのは、寛政6年のわずか10ヶ月に過ぎない、その間に写楽は145枚の作品を残したが、傑作というべきは役者を描いた大首絵28点に過ぎない。たった10ヶ月の間でも写楽の絵には変遷があって、時間がたつにつれて凡庸さを増していくのだが、それは俄かに売れっ子になったせいで、才能の浪費に走った結果ではなかったか、というのが番組の推測だった。

この番組は、長い間根拠もなく写楽は北斎の仮の姿だと思い込んでいた筆者のようなものには、大いに目覚ましの薬になった。





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このページは、が2011年5月 9日 20:13に書いたブログ記事です。

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