大阪府議会で単独過半数を占める地域政党・維新の会が議員定数を109から88に削減する条例案を強行採決で成立させた。
この削減案は、維新の会の首領である橋下知事の持論で、大阪府民の庶民感情を狙った人気取り政策のひとつだ。首長が議会の定数を云々すること自体は、地方自治法の精神を逸脱しているから、橋下知事は自分で作った地域政党を使って、それを実現させたわけだ。
自民・公明・民主などの既成政党は、やり方があまりに拙速だと猛反対。それでもなんとか妥協を図ろうとしたが、維新の会は一切取り合わない姿勢。断念した既成政党側は、審議拒否をするとともに、議場をバリケードで封鎖するなど、実力行使に出たりもしたが、多勢に無勢の悲しさ、一方的に蹴散らされて強行採決に屈した形だ。
こんな肉弾審議はこれまでの地方自治の歴史の中でも、ほとんど見られなかったのではないか。維新の会はこの騒ぎについて反省する様子はない。かえって「維新=改革派、既成政党=守旧派」という図式を作って、自分たちの正当性をアピールしているそうだ。
だがよく考えれば、維新の会の議員たちのやったことは自分たち自身のアイデアから出たことではなく、首領の橋本知事の意向を実現しただけ、というのが本当のところだろう。
議院内閣制にたった国政とは異なり、地方政治では首長と議会が対等な対立関係にあるのが望ましいあり方だ。議会側が首長の意向に一方的に屈するのは正常な姿ではない。もしそんなことがまかりとおるなら、バランス・オヴ・パワーの美しい理想は踏みにじられ、暴力的な専制政治が出現することになろう。
それにしても、こんな殺伐としたことが生じた背景には、日本の政治の現在の閉そく状況があると考えられる。
地方議会は国会ほど政党化が進んでいるわけではないが、それでも都市部では既成政党の存在が大きい。大阪府議会も東京都議会と並んで、政党化が進んでいた。
そこでだ。
国会ではいま、政党政治が曲がり角に立っていることは誰もが感じている。国民は自民党による長期政権にノーを突きつけ、民主党に政権のチャンスを与えた。ところがその民主党も、日本の未来を託するにはあまりにも脆弱だということを、国民は思い知らされた。そんな国民の幻滅を利用するようにして、ポピュリズム的な政治家たちが台頭してきた。
いまのところそれは国政にまでは及んでいない。また農村部を含めた地方政治全体の場に広がっているわけでもない。だが大阪のような大都市部においては、国政に対する幻滅を補うような形で、ポピュリズム的な動きが強まっているのかもしれない。橋下知事などは、そんな動きに掉さす動きの、シンボル的な人物像なのだろう。
しかしこんなことは基本的に、おかしなことというべきだ。議会が首長の意向に沿うだけの操り人形のような存在になり果てることは、議会の自殺行為に等しい。死んでしまったというか、議会として機能しなくなった議会は、マイナスの効果しか果たさない。それでは困る。
もしも国政でそんな状況が生じるとしたら、それは民主主義への重大な挑戦を意味すると考えなければならない。改革の名で横暴な振舞をする連中は、ファシストの予備軍と考えなければならない。