伊豆修善寺温泉につかる:新井旅館

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山、落、松の諸氏と伊豆修善寺温泉に遊んだ。山子が細君を伴ったので、車二台のドライブになった。足柄インターで合流し、沼津の漁港で昼餉を食い、二時過ぎに修善寺に到着した。到着後、修善寺を訪れ、独鈷の湯の辺りと竹林を散策し、三時頃に新井旅館という宿に投じた。

この旅館は明治14年創業という古いもので、歴史を誇る修善寺にあっても特段に古い建物が並んでいる。何でもその数は10数棟にのぼり、そのほとんどすべてが国の重文指定を受けているそうである。投宿後旅館の女子職員がわざわざ我々に向かって館の来歴を説明してくれた。

その職員はむっくりと太った若い女性だった。太っているのにかかわらず美人といっても良い、そんな風情が村上春樹の小説「ハードボイルド・ワンダーランド」に登場する太った女の子を思い起こさせた。

彼女が我々の前に立って、案内図を指差しながら説明を始めると、館の来歴とひとつひとつの建物の詳細が手に取るように分かるのだった。彼女は太って美人であるだけでなく、話し方も上手なのだ。

彼女の説明によると、旅館の三代目は婿養子だった。彼は東京美術学校を卒業して日本画を描いていたが、旅館の亭主になったことを契機に画業を放棄、自らは絵を描かぬ代わり、若くて有望な画家の面倒を良く見た。こうして彼が面倒を見たり世の中に送り出してやった画家には、安田靫彦、小林古径,前田青邨などがあった。とりわけ安田靫彦は家族の一員のように遇せられ、三代目は靫彦のために専用の家屋を用意してやったほどだった。

多くの文人たちも訪れ、この旅館で作品を書いた作家も少なからずいた。岡本綺堂はこの宿で「修善寺物語」を書き、尾崎紅葉は「金色夜叉」を書き、芥川龍之介は多くの短編小説を執筆した。

三代目はまた、歌舞伎役者の初代中村吉右衛門とも親交が深く、安田靫彦をあわせて三人で義兄弟の契りを結んだほどだった。吉右衛門の倅松本幸四郎にも目をかけ、彼の名をとった菓子を販売するようになった。その菓子は、後で抹茶と共に振舞われたところだ。

講釈を終えると、彼女は我々に館内をくまなく案内してくれた。敷地は3000坪ほどあり、桂川からひいた水で池をめぐらし、それを囲むようにして建物群を配置している。だからどの部屋も水に面している。

筆者は数年前に修善寺を訪れたことがあったが、その際にもやはり、巨大な池を囲んで建物が連なっている旅館に泊まったことがあった。両者とも結構が良く似ている。そこでその宿の名に心当たりがないか尋ねたところ、そこは「あさば旅館」さんだと思います、と答えてくれた。

そういえばあの時も独鈷の湯や竹林のあたりを散策し、翌日は修善寺を訪れた後にバスに乗って七滝めぐりをし、河津桜を見ながらうまい刺身を食ったものだった。

館内に風呂は4っつあった。もっとも古いのは天平風呂といって、台湾杉の大丸太で天井を支える作りだった。湯船は岩で作られており、水道の蛇口がないのは、作ったときのままに残しているからだという。泉質は単純アルカリ泉だが、結構体が温まる。

このほかに野天風呂もあって、これは昔ながらの露天風呂の結構を保存していて、なかなか野趣に富んでいた。

筆者は旅先で朝風呂を浴びることはしないのだが、今回は朝から露天風呂につかった次第だった。





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このページは、が2011年7月11日 21:19に書いたブログ記事です。

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