どっこい生きる:孤立集落の挑戦の記録

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NHKスペシャル番組が、東日本大震災から立ち直ろうと、国の施策を待たずに自力で復興の努力を続ける人々を丁寧に追っていた。そこには懸命に、しかも前向きに生きようとする人々の姿があった。彼らを見て、筆者は感動した。

「孤立集落 どっこい生きる」と題したこの番組は、宮城県歌津半島にある南三陸町馬場中山集落をとり上げていた。この集落には400人の人々が住んでいたが、津波で死んだ人は7人だった。硬い絆が人々を支え合い、多くの人が津波を生き延びたのだ。

人々の絆は震災後にも生き続けた。彼らは壊滅した村落を見下ろす高台に、自発的に小集会所を設け、そこで集団生活を始めた。周囲から完全に孤立し、最初の頃は援助物質も届かず、人々は瓦礫のなかから泥をかぶったコメを拾い上げては、それを「よなげて(洗って)」、炊いて、命をつないできた。

油もなければ、電気もなければ、風呂もない。身一つだけの生活だ。それでもこれまで頑張ってこられたのは、いつも一緒に暮らしてきた仲間たちと、一緒に暮らせることができたからだ。人々の、お互いを思いやり、お互いに支え合う人間関係が、苦境の中でも尊厳に満ちた生き方を、彼らに可能にさせたのだろう。

彼らは自分たちで自主的な復興プランを立てた。行政をあてにしていては、いつ復興の手掛かりが得られるかわからないと考えたからだ。復興プランは、新しい集落づくり(山の計画)と、彼らの成業である漁業の復興(海のプラン)から、主に成り立っている。

新しい集落の用地として、彼らは自分たちで1.2ヘクタールの高台の土地を用意した。しかし行政は、水道の確保が困難なことを理由に、整地に難色を示した。そのかわりに彼らが提示されたのは、行政が用意した仮設住宅への入居だった。しかし、それに入ることのできる人はわずかに20世帯。ほかの人たちはばらばらにならなければならない。

そこで彼らは、自分たちで何とか集落を維持しようと、ボランティアの助けも借りて、高台に6メートルの道路を通し、そこに集合住宅を建てるプランを推進することにした。

海の計画を進めるためには、まず船が必要だった。彼らは一隻残らず船を津波にさらわれてしまったのだ。そこで海に沈んだ船を引き揚げて修理したり、北海道まで出張して中型船を買い取ったり、漁業の振興に必要な条件をひとつづつ地味に整えてきた。その結果、ほんの小規模とはいえ、漁に出ることが可能になるまでに進んできた。

彼らにとっては、ネットを通じて寄せられる支援の輪がありがたい効果を発揮した。念願だった風呂も、ボランティア団体が運んできてくれた。小さな五右衛門風呂だが、ぬくもりは大きい。

彼らは、一人一人の力は弱くとも、それを合わせることで大きな力となることを誰よりもよく知っている。そんな彼らを通じて、我々も人間の絆の素晴らしさを改めて感じさせられる。日本人は太古の昔から皆そうして命をつないできたのだ。





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このページは、が2011年11月 7日 21:36に書いたブログ記事です。

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