伊東孝之「ポーランド現代史」を読む:スターリンの領土拡大主義

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伊東孝之著「ポーランド現代史」を読んだ。ポーランドはヨーロッパ近・現代史の中でも、国家のアイデンティティを巡って最も劇的な展開を示した国だ。ポーランドの歴史は外国による支配との戦いの歴史であり、また絶えず領土が変動してきた歴史でもあった。

近代以前における長い外国支配を抜けて、近代的統一国家として出発したのが1918年、第一次世界大戦で生じた国際関係の空白を縫うようにして建国した。だがわずか21年後に独ソ両国によって分割されてしまう。そして第二次世界大戦後には、それまでの国境を大きく変える形で西へ大移動させられた。

ヨーロッパ史においては、政治的力関係に応じて国境が変ることは珍しいことではなかったが、20世紀になって、他国の大きな犠牲において新たな国境が定められたことは、大いなる驚きに値する。

筆者はこんな問題意識からこの本を読んだ。一つには小国が大国の思惑に翻弄されて度々国境の変更を迫られたこと、もうひとつはポーランドに国境の変更を迫ったスターリンの領土拡大主義をフォローしてみたかったのだ。スターリンの領土拡大主義の犠牲になったのは日本もまた同じだからだ。

ポーランドの独立は例外的な国際情勢のたまものだった。第一次世界大戦の結果、それまでポーランドを分割支配していたドイツ、オーストリア、ソ連(ロシア)が同時に政治的に無力な状態に陥ったためだ。

独立を宣言したポーランドは、18世紀末に行われた三国分割前の国境線を回復することで、新しい独立国家の領土を確定しようとした。旧ドイツ領と旧オーストリア領については比較的問題がなかったが、ソ連との間の東部国境については大いに問題があった。歴史的に見てもそこは、ポーランド人、ウクライナ人、ベロロシア人との混住地域であったし、ポーランドが領有することについてはソ連が強硬に抵抗した。

そのため領土問題をめぐって、ロシア革命の混乱から立ち直れないソ連との間で戦争が起こった。イギリス外相カーゾンが和平交渉に乗り出し、ソ連とポーランドの国境を今のポーランド東部国境とほぼ重なるライン(カーゾン線という)とすることをソ連側に提案したが、ポーランドはこれを退けた。

結局ポーランドは武力にものを言わせた。ポーランドはソヴィエト軍の混乱に乗じて敵を敗走させ、東ガリツィアをはじめ旧ロシア領を次々と占領、1921年3月に締結されたリガ条約において、ポーランドはベロルーシ西部からウクライナ西部にまたがる旧ロシア領を獲得することができた。

連合国側も1923年3月にいたって、ポーランドが実効的に支配しているすべての地域に対する主権的な権利を認めた。その範囲は39万9700平方キロメートル、うち旧ロシア領67.3パーセント、旧オーストリア領20.6パーセント、旧ドイツ領12.2パーセントであり、1772年以前と比べれば53パーセントの減ではあるが、カーゾン線を国境とした場合に比較すれば54パーセントの増であった。

スターリンは国力の充実を背景に、ポーランドに奪われたと彼が感じていたところの領土の回復を虎視眈々とねらった。ヒトラーはヒトラーで、ポーランドはこの世に存在する資格のない野蛮な国家であり、したがって抹殺されるべきだと考えていた。こうして彼らは独ソ不可侵条約を結んだうえで、ポーランドを再び分割したのだった。1939年9月におけるナチスのポーランド侵略を以て第二次世界大戦が勃発する。

ポーランドの再分割の結果、独ソの国境はカーゾンラインの西側、ポーランド国家をほぼ二分する線に定められた。この結果ソ連が獲得したのは旧ポーランド領の51.7パーセント、20万1000平方キロメートルだった。

スターリンはポーランドを「ヴェルサイユ条約の醜い子ども」と呼び、ポーランド国家の消滅をめざしていたと思われる。ドイツとの間で、ポーランドの独立運動を抑圧する秘密協定を結び、併合地域のポーランド系住民を厳しく抑圧したことにそれは現れている。ポーランド系住人のほぼ2割、100万人以上の人々がシベリアや中央アジアに移住させられた。また8000人にのぼるポーランド人将校がソ連軍の捕虜となったうえで虐殺される事件も起きた。(カトィンの森事件)

第二次世界大戦の行方は、米英にソ連の対独参戦を強く望ませるものになった。ドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連内に侵攻した事態が、ソ連を連合国側に近づける要因となった。しかしスターリンは独ソ参戦に条件を付けた。再分割によって獲得した旧ポーランド領の大部分、少なくともカーゾンラインの東側をソ連領とすることに、英米の了解を求めたのだ。

まず、1943年11-12月のテヘラン会談において、米英ソの連合国首脳は、ポーランドの東部国境をカーゾン線とし、西部国境をオドラ・ヌイサ(オーデル=ナイセ)線とすることで基本的な合意を見た。オドラ・ヌイサ線は旧ドイツ領の本体そのものである。これは米英がドイツの犠牲の上でポーランド国境を西に移動させ、そのことでソ連の領土的野心に応えようとした選択である。当時ルーズヴェルトは大戦によりいかなる領土の拡大も許されるべきではないと考えていたが、この妥協はドイツに是が非も勝つために必要な妥協だと考えたのだろう。

当時ポーランドの亡命政権を指導していたのはミコワイチクだが、彼はカーゾン線の受け入れに拒絶反応を示した。彼はむしろ、独ソ分割以前のポーランド領土に加えて、オーデル・ナイセ線以東を要求するようなことまでした。

フランソワ・フェイトの古典的研究「スターリン時代の東欧」は、そんなミコワイチクに対してチャーチルがソ連の領土要求を受け入れるように迫り、次のようにいったと書いている。

「わたしは先日君の幕僚のアンデルス将軍と話した。あの男は、連合軍がドイツを敗北させたあとでロシアをも打ち負かすという希望を抱いているようだった。馬鹿げたことだ・・・君たちは2千500万人の生命にかかわる戦争を起こそうとしている・・・君たちの政府は政府などではない。君たちはヨーロッパを難破させ、君たちの勝手千万な拒否権で連合国の協定をぶちこわそうとする、気のふれた人間の集まりなのだ」

ミコワイチクは辞任し、亡命政権は政治的な影響力を失い、その政治的空白をモスクワで訓練されたポーランド人共産党部隊が埋めるようになる。ポーランド共産党は、スターリンの描いたソ連の領土拡張プランを、側面から援助する役割を果たすのだ。

第二次世界大戦でポーランドが蒙った人的・物的被害は甚大なものだった。人口の22.2パーセントにあたる603万人が殺された。それは人口比ではヨーロッパ最大の規模だった。なかでもユダヤ人は300万人、全体の90パーセントが殺された。

こうした犠牲の上に新しいポーランド国家が成立した。ポーランドは東方で18万平方キロメートルをソ連に割譲し、西方において10万3000平方キロメートルをドイツから獲得した。その結果差引7万7000平方キロメートルの損失となり、従来より250キロメートル西側に移動した。

領土の移転は住民の移動を伴った。ソ連割譲地域にいたウクライナ人とベロロシア人は居住地ともどもソ連に移り、そこに住んでいたポーランド人は主にドイツから獲得した地域に移住した。旧ドイツ領内にいたドイツ人は、主に旧西ドイツ地域に移住していった。その数は約850万人、うち120万人が移住の際の困難のなかで死んでいった。

この結果新生ポーランドは、まれに見る同質的な国家に生まれ変わった。歴史的に見れば、ポーランドは国家としてのアイデンティティの確立にたえず悩まされてきたのであったが、ここに比較的純粋な民族構成を確立して、国家としてのまた民族としてのアイデンティティが高まったといえる。(写真はヤルタ会談に臨むチャーチル、ルーズヴェルト、スターリン)





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このページは、が2011年11月28日 20:22に書いたブログ記事です。

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