日本の対ソ戦略:半藤一利「昭和史」から

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ロシア・ソ連は日清、日露戦争以来の日本の宿敵だった。日本が朝鮮半島を属国とし、満州に傀儡国家を樹立したのも、ロシアの脅威に備えるための防波堤としての役割を期待しかたらだ。無論それがすべてではないが、最も大きな動機であったことは間違いない、と半藤さんは考える。

ところがこの宿敵ともいえる相手に対して、日本政府は終始一貫した戦略を持ち合わせなかった。その結果、日本は対米英戦争の末期にソ連の侵攻を受け、民間人を含む膨大な数の犠牲をだし、北方領土の侵略を許すに至ったのだ。

日本の対ソ戦略が甘くなるのは、対中国関係が重要な課題となってからだ。盧溝橋事件を契機に、日本は中国との全面戦争へと突き進んで聞くが、中国との戦争は当然ソ連との関係にも重大な影響を及ぼす。一方で中国と戦い、もう一方でソ連と戦うといった両面作戦は、戦争遂行の上で最低の作戦であるから、どちらかとの対決を優先すれば、もう一方との対立は避けなければならなくなる。こういう理屈から、日本は中国との戦争を優先するあまりに、ソ連への備えに手を抜いた、これが上述のような結果を招いた、といえるのではないか。

対中国、対ソ連のどちらかを優先するかについて、一時記陸軍内部で深い対立があった。今日皇道派と統制派の派閥争いと云われている対立だ。皇道派は、日本の最大の脅威はソ連であり、何よりソ連に対して準備しなければならない、そのソ連は5か年計画を進めて国力を強化しているから、彼が強くなる前に叩いておかねばならない、と対ソ連予防戦争論を主張した。

これに対して統制派は、ソ連よりも反日排日で日本を敵視している中国を叩きつぶすのが先決だ、ソ連と戦っている間に横から中国が出てきて攻撃されるのはかなわない、だからソ連を叩く前に中国を叩け、という中国一撃論を主張した。一撃論と云うのは、中国などは一撃で叩きのめせるという、軍部の思い上がった考えを反映したものである。

この対立は統制派の方が勝って、皇道派の連中は2.26事件の責任を負わされたこともあって、陸軍部内での影響力を失った。こうした事情の下で、対中国強硬論が圧倒し、日中戦争へと突き進んでいくわけである。日中戦争が勃発した当初、陸軍の中枢部は中国など一撃で倒してみせると意気込んでいたわけだが、そうはいかなかったことは歴史が物語るとおりだ。

ノモンハン事件は、日本軍がソ連軍と戦った最初の本格的な戦争であるが、日本はこれを計画的に遂行したわけでもなく、国を挙げての戦争と位置付けていたわけでもない。関東軍の跳ね上がりどもが、自分たちの独断と偏見に基づいて行った、無謀で無責任な戦争であったことは、半藤さんが「ノモンハンの夏」の中で強調している通りである。

そんなわけだから、日本はノモンハン事件から何も学ばなかった。ところがスターリンの方は、そこから貴重な教訓をくみ取っただけでなく、日本を外交の手玉に取り、日本が破滅に向かって突き進むのに、背中を押してやる役目まで果してくれたというわけだ。

そもそも日本が、対米英関係の悪化を覚悟しながらもナチス・ドイツとの接近を試みた背景には、対ソ戦略があった。ドイツと手を結ぶことでソ連を挟み撃ちにする、あわよくばドイツをけしかけて攻撃させ、日本は漁夫の利を収める、こんな妄想を当時の政府が抱いていたことはほぼ間違いない。

ところがそのドイツが、ソ連との間で不可侵条約を結ぶ。これは日本にとっては不可解至極の出来事だった。

この時の日本の指導者が、どんな国際感覚をもっておったか、ほとんど理解不能である。ドイツとは、日本の最大の敵であるソ連に備えるために防共協定を結んだ。ところがそのソ連とドイツとが手を結ぶ。いままでの国策の延長上で考えれば、ここでひと休止措いて、日本の進むべき道を考えなおすべきチャンスだったかもしれない。つまり、ドイツとの関係を白紙に戻し、対米英との関係を再構築するといった選択肢も当然ありえたわけなのだ。

ところが、ここに松岡洋右という人間が登場する。彼は、日独伊三国同盟と日ソ中立条約とは両立すると判断するのだ。つまり、ソ連と中立条約を結ぶことで、北からの脅威を除き、対中戦争に全力を挙げることができると考えたわけだろう。

しかしスターリンが日本との中立条約を最後まで守る意思がなかったことは歴史が物語っている通りだ。スターリンはヤルタで、ローズヴェルトやチャーチルから対日参戦を求められた見返りに、日露戦争で失った樺太南部と千島列島すべてを求めたのだ。ソ連がいまだに千島全島の領有を正当だと主張するのは、このヤルタ会談での首脳間のやりとりを根拠にしている。

そのソ連から日ソ中立条約の破棄(5年間の期限を延長しないこと)を通告されたのは1945年4月5日である。完全な破棄がただちに成立するわけではないが、以後ソ連が日本と敵対するであろうと意思表示したことには間違いない。

ところが日本人はどこまでお人よしなのか、そのソ連を憎む気にはなれなくて、対米英戦争終結の斡旋をソ連に頼もうとしたのである。

ソ連は日本のために一肌脱ごうなどと云う気はさらさらない。それどころか、なるべく早期に対日参戦して、ヤルタでルーズヴェルトらに語ったことを実現しようとするのだ。こんなわけで、ソ連からの返事を首を長くして待っている間に、広島、長崎に原子爆弾が投下され、8月9日には膨大なソ連軍が満州国境を突破して侵入してくる。以後、民間人を含む膨大な数の犠牲者が出、千島列島がことごとくソ連に占領されたわけである。





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このページは、が2012年1月 3日 18:04に書いたブログ記事です。

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