中尊寺金色堂

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平泉の中尊寺金色堂を見たのはかれこれ20年も前のことだ。季節は秋も深まる紅葉の時期だったと記憶している。単身ぶらりと松島を訪ね、そのついでに立ち寄った。その時のことは日記に書いた覚えがあるので、取り出して読んでみると、平泉の駅前から馬車に乗っていったということ、全山が見事な紅葉に包まれていたことなどが書いてあるが、肝心の金色堂の様子は何も書いていない。

といって印象が弱かったということでもない。その時に見た金色堂は今でも脳裏に残っている。まず驚いたのは、思っていたよりずっと小さくて、しかも構造物の中に安置されていたことだ。御堂というからには、それなりに大きいはずだという思い込みが外れた。御堂と云うより、御堂の形をした飾り物のように映った。しかし大きさを別にすれば、なかなか迫力のある作り物に見えた。金の輝きが金色堂の名に恥じない。

こんなことを書いているのも、昨日見たNHKの番組に触発されたからだ。「世界遺産 平泉 金色堂の謎を追う」と題したこの番組は、外からはなかなかうかがい知れない金色堂内部の様子を、クレーン型のカメラを通じて、くまなく映し出していた。

仏たちを始め、建物内部の詳細、天井や床や柱に施された修飾が委細もらさず映し出された。すべてに金箔が施されている。その数6万枚にものぼるらしい。金箔と並んで目を引くのは夜光貝で作った螺鈿だ。2万7000枚もあるという。金箔にしろ螺鈿にしろ、制作には高い技術と膨大な労力を要する。藤原氏の実力がいかに大きかったかを物語る。実際当時の平泉は東アジア最大規模の都市だったらしいのだ。

藤原氏が繁栄できたのは、朝廷に莫大な富を貢ぎ、その見返りに一定の自治を認めさせたことにある。黄金で独立を買い取ったといえよう。

現存する寺院や発掘調査などを通じて、平泉の藤原氏が蝦夷や樺太のアイヌや宋と直接交易していたことが明らかになった。日本列島の中に、もうひとつ独立した国家があるような状況といえる。藤原氏の政治的な自立性が非常に高かったことの現れだ。

金色堂についてもうすこしいうと、建造後160年間はそのままの形で山頂に立っていたという話に驚いた。奥大道という街道に面していたので旅人に見られたとともに、山頂に聳えているところは麓の町の住民からも良く見えた。この堂は極楽浄土の再現としての意味合いを持っていたから、藤原清衡はこれを見せることで、仏のありがたさを教えようとしたのだろう。

この堂の功徳があったためか、藤原氏三代の100年間は、日本の歴史上でもまれな、安定した平和な時代だった。





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このページは、が2012年1月 9日 19:53に書いたブログ記事です。

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