オウム真理教の信者だった高橋英利氏が書いた「オウムからの帰還」を読んだ。読む気になったきっかけは、村上春樹による一連のオウム事件へのかかわりに触発されたことだ。
村上は、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューや、オウム真理教の信者へのインタビューを通じて、この宗教団体が犯した事件の異常な性質をあぶりだすとともに、それにもかかわらず大勢の信者を事件の加害者として巻き込んでいったこの宗教組織についての社会病理学的な考察を展開していた。
その結果村上がたどりついた中間的な結論は、オウムに身を寄せざるを得なかった大勢の若者の悩める生き方に対して、社会全体としてそれを受け入れ包容するような度量が、日本の社会には欠けていたというのではないかということだった。
たしかに村上のインタビューに応じたオウム信者たちの多くは、麻原以下の幹部たちが引き起こしたおぞましい事件については厳しくこれを批判し、それへの自分自身のコミットメントは考えられないとしながら、オウム真理教と云う宗教組織に自分が加わり、そこで生きた時間については後悔していないといっていた。村上はそんな彼らの言葉を聞くにつけ、彼等にはオウムと云う特異な空間しか身を寄せるところがなかったという事情に一定の理解をせざるを得なかったのだろう。
高橋氏もオウム真理教以外に自分の身を寄せる場所を見出すことのできなかったひとりだ。だが彼は、他の信者に比べると、全面的にオウムに一体化する度合いが弱かったようだ。多くの信者がオウム真理教事件以後も教壇にとどまったのに対して、彼はこの本の題名にもあるとおり、オウムを脱出して、こちら側の世界に帰還してきた。
この本では、彼が何故オウムに強い疑問を抱くにいたり、その結果オウムを脱出する気になったのかを、時間軸に沿って述べている。
述べ方は非常に論理的で、筋が通っている。しかし論理的な度合いが高いだけ、彼の精神内部の動きはいまひとつわからない。つまり論理に勝ちすぎるだけ、自己弁護に陥っている、そんな感じがするのだ。
著者は色々なところで教団がなしつつある異常な振る舞いに疑問を感じ、場合によってはそれを声にして批判したといっているが、麻原本人に対しては最後まで麻原さんといっているように、感情の底の方では麻原を受け入れている気配がする。
また自分の意思に基づいて自発的に脱出したという言い方になっているが、文脈から受け取れるのは、騒ぎのどさくさに紛れて逐電した、あるいは信者たちの主流の動きについていけなかった、というのが正直なところのようにも聞こえる。
筆者は別にこの本の著者を責めるわけではないが、著者がこの本の中で本当に訴えたかったのが何なのか、明確に読み取ることができなかった。
つまり、オウムと云う宗教組織に中にいたということを、自分自身の人生の中でどのように位置づけるのか、またそこを抜け出してこちら側の世界に帰還したことで、自分自身の生き方がどのように変わったのか、その肝心な部分の叙述がないために、筆者はどうも、はぐらかされたような気分に陥るわけなのだ。
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