見捨てられた日本人:半藤一利「ソ連が満州に侵攻した夏」

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半藤一利さんの著書「ソ連が満州に侵攻した夏」は、1945年8月9日にソ連が対日参戦して以降日本側が蒙った損害について概括的に記録している。半藤さんによれば、8月9日以降の僅かの期間に日本軍が蒙った戦死者の数は、ソ連情報局の特別声明をもとに約8万人と推定される。たった一週間でこれだけの人間が殺されたのだ。

この他ソ連は日本人を強制連行してソ連各地の収容所に送り、強制労働に従事させた。厚生省の調査によれば、将兵56万2800人、官吏、警察官、技術者など1万1700人がシベリアに送られ、そのうち日本に戻れたのは47万2142人、さしひき10万人がソ連で無念の死をとげたことになる。

以上は主として軍関係の被害の概要だが、民間人の蒙った被害も甚大だった。ソ連参戦当時満州には約150万人の民間人がいたといわれるが、そのうち無事日本に帰国できたのは、約105万人である。残りの45万人にどういう運命が待ち受けていたか、詳しいことは分からない。「満蒙終戦史」(満蒙同胞援護会編)は、在満日本人の死者を18万694人と記している。殆どは1945年と1946年に死んでいる。(在満日本人の引き上げの第一陣は1946年5月15日のことである)

8月9日にソ連が満蒙国境を越えて満州に侵攻してくると、関東軍は大混乱に陥った。関東軍はもはや、日本軍としてのまともな体裁を備えていなかったから、ソ連軍と正面から戦う能力に欠けていた。それ故ソ連軍は抵抗らしい抵抗に殆ど出会うことなく満州平原を南に向かって進行してきたわけだ。

この時点で、関東軍が最低限しなければならなかったことは、在留邦人の保護だったはずだ、と半藤さんはいう。それなのに関東軍は、在留邦人を見殺しにして自分たちだけが真っ先に日本に逃げ帰る事だけを考えていた、と半藤さんは憤りをこめて糾弾している。

ドイツでは、ヒットラーが自殺した後、敗戦を覚悟したドイツ軍司令官デーニッツは、残された船のすべてを使って、東部ドイツに居住するドイツ人を4か月かけて西部ドイツに移動させた。ソ連軍の蹂躙から一般国民を守るためである。この措置によって200万以上のドイツ人が命拾いをした。

ヨーロッパでは、敗戦を覚悟した国がまず真っ先にやらねばならぬことは、国民の生命を守ることだという信念が確立されていた。国は存亡の危機に面してこそ、その神髄が試されるのである。

ところが日本軍は、情報を知りうる立場にある軍人とその家族が真っ先に安全な地域に移動し、あまつさえ自分たちだけが日本に向けて脱出するというようなことをやってのけた。関東軍は8月11日には早くも、新京から平壌にむけての脱出列車を工面したのだが、それに乗れたのは新京在住14万人のうち3万8千人、うち関東軍関係者2万300人、官吏とその家族750人、満鉄関係者1万6700人である。新京に在住する一般の日本人はあっさりと見捨てられたわけである。

この時新京に残された日本人たちは、命からがら日本に戻ってきた後で、日本軍を散々に罵った。当たり前のことだ、と半藤さんはいう。民間人を守るべき立場にあるものが、その責任を果たさずに、民間人を火中に放り投げたまま、自分たちだけが助かろうとしたわけだから。

この事実は戦後の日本国民に、およそ軍隊と云うものへの不信感を植え付けるのに決定的な役割を果たしたと筆者などは考える。日本人の戦争嫌いは徹底しているが、それは戦争そのものが嫌いと云うより、国民を見捨てて恥じない日本の軍隊という者への怨念がそうさせていると思われるのだ。

新京でさえこういうわけだから、満蒙国境などの周辺部に住む日本人は、何らの情報もないままにうち捨てられ、襲い掛かるソ連軍の強暴な暴力の犠牲となっていった。その様子を半藤さんは手身近に記していくが、それを読むと何ともやり場のない気持ちに陥る。

少なくとも20万人近い一般邦人が殺されたのだ。ソ連による強暴で陰惨な攻撃は、方々で日本人を虐殺し、また絶望した日本人を自殺に追いやった。なかでも葛根廟事件、佐渡開拓団事件、日満パルプ血の抗議事件などが、ソ連軍の凶暴さを物語るものとして注目される。

葛根廟事件とは、1945年8月14日に起きたもので、満蒙国境近くの内蒙古興安省地区の住民約1400名が、南に向かって徒歩で行進中、背後から来たソ連軍に銃撃され、1000人以上が殺されたというものだ。1400人の殆どは老人、女性、子どもたちで全く抵抗できないままに、家畜がと殺されるように虐殺されたのである。

佐渡開拓団事件とは、満州東部の渤利市付近で佐渡開拓団の人々がソ連の攻撃を恐れて集団自決した後、更科郷、阿智郷、南信濃郷などの人々が次々とこの地に集結したところを、ソ連軍によって虐殺された事件である。殺された人の数は1464人にのぼり、一か所で殺された人の数としては最大である。

日満パルプ血の抗議事件とは、ソ連軍兵士による強姦のたらいまわしに抗議した女性たち20数名が集団自決したというものである。これに類似した事件はそれこそ満州全体にわたって展開されたものと思料される。

こうした見捨てられた日本人が、敗残の国の民として舐めた塗炭の苦しみについては、これまであまり話題になることもなかった。死者はともかく被害にあった当事者の人も、思い出すにはあまりにも苦しく、ましてこれを話題に取り上げて云々するのは耐え難かったからだろう。

しかし歴史の真実は闇に葬られたままではいけない。





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このページは、が2012年2月 7日 19:08に書いたブログ記事です。

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