小泉・金正日の日朝首脳会談とは何だったのか

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2002年と2004年の二度にわたって、小泉純一郎・金正日の間でなされた日朝首脳会談とはいったい何だったのか。日朝間の歴史におけるその意味について、和田春樹氏が雑誌「世界」に小文を寄せている。(金正日氏と日朝国交正常化)

表題から推察されるように、氏はこのことを主に、金正日の意思に焦点をあてながら分析している。この首脳会談は基本的には、経済の立て直しと国際社会への復帰のきっかけを日本に求めた、金正日の意思がなさしめたと評価しているわけだ。

2002年の日朝首脳会談がなされた時は、日本のメディアはもっぱら拉致問題に焦点をあてていたが、拉致の問題は日朝間で問題となったイシューの一つに過ぎず、この会談では日朝の国交回復や、その前提としての日本による朝鮮支配への謝罪と、損害の賠償も当然議題となった。

金正日としては、拉致問題を含めて日朝関係を正常化し、日本からの様々な援助を引き出すことで、国の近代化を図りたい、そういう意図を強力に抱いていた。それに対して日本側は、報道も含めて、そうした北朝鮮側の意図にはあまり配慮した形跡がなく、拉致問題に感情的に反応するばかりで、結果として日朝関係の正常化と、朝鮮半島の緊張緩和と云った重要なイシューの解決を妨げる結果になった、と氏は結論付けている。

北朝鮮からの日本への接触は、森内閣の時に始まった。外務省を通じてではなく、森の腹心の中川秀直を通じた非公式な接触だった。北朝鮮としては、日本による支配によって蒙った損害については、賠償請求を引っ込めるかわりに経済援助をしてほしい、こういうスタンスだったという。

ところが森内閣が倒れ、小泉内閣ができると、今度は外務省を通じて正式な外交ルートで国交正常化を打診してきた。金正日は小泉に国交正常化に向けての強い意志を示した。小泉はそれにこたえる形で日朝首脳会談射臨んだ、というのだ。

その会談の席では、国交回復のために必要な様々な前提について話し合われたはずだ。しかし日本の国民には、国交回復の事ではなく、拉致被害のことばかりが伝えられた。そのことは、小泉首相を含めて、日本政府が拉致問題をめぐって国民世論のなかで盛り上がっていた空気を無視できなかったという事情もあるだろう。また、金正日からの申し出を、拉致問題についての、国民向けのパフォーマンスに利用したフシもうかがえる。

拉致問題はもちろん重要な問題には違いない。だが折角の日朝首脳会談というチャンスを、拉致問題に感情的に反応することでこじらせてしまったことは、能のないやりかただった、と氏はいう。そこには外務省の自己防衛的な態度もかかわっているという。外務省はせっかく日本側が誠意をもって対応しているのに、北朝鮮側が不合理なことばかりするので、問題がこじれてしまった、ともっぱら北朝鮮に責任を押し付けるばかりだが、果たしてそうか。

拉致問題はその後膠着して何ら進展しないばかりか、日中国交正常化と云う重要なイシューも遠のいてしまった、その原因の一端は、後ろ向きの姿勢に終始していた外務省にもあったのではないか、と氏は推察している。

2002年の日朝会談の際に、北朝鮮は切羽詰まった状況にあったはずだ。ソ連が瓦解し、中国もあまりあてにならなくなり、ブッシュのアメリカからは「ならずもの」呼ばわりをされて、金正日は国際的な孤立と安全上の脅威を感じていたはずだ。そうだとしたら、その時の日本にはいろいろな切り札があったはずだ。にもかかわらず日本側は、拉致問題が進展しないことを理由に、非常に感情的な反応をし続けた。

それは能のないやり方だった、と氏は強調してみせる。たしかにそういう見方もあるかもしれない。






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このページは、が2012年2月14日 19:06に書いたブログ記事です。

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