先日(2012年3月31日)のNHK番組「シリーズ日本新生 橋が道路が壊れていく~インフラ危機を乗り越えろ」を興味深く見た。高度成長期に整備された巨大な社会資本が更新期を迎えているが、現在の財政規模を以てしては、そのすべてを更新することは不可能に近いばかりか、かなりの部分のインフラが、財政危機のために更新できない可能性があるというのだ。
それでも、更新しないで放置することは、行政としてはなかなかできない。仮に放置した社会資本の不備によって重大な事故でも起きれば、行政の無作為責任が問われるからだ。だからといって、借金をしてまで更新する余裕もない。多くの自治体担当者は、こうした事態を前に途方に暮れるばかり、といったやりきれない光景が浮かんできたのだ。
ひとつ面白いと思ったのは、富山市など一部の自治体で、「街をコンパクトにすることで、インフラの"選択と集中"を行う」動きが広がっていることだ。これは社会資本の中で、整備・更新をするものと放棄するものを区分けして、放棄される地域に住んでいる人に、社会資本の集中した地域に移り住んでもらおうとする動きだ。
いってみれば、「人の住み方にあわせて社会資本を整備するのではなく、社会資本にあわせて人の住み方を調整する」やり方だ。こうすれば、少ない財政資源を効率的に活用することができる。すくなくとも、総花的に整備を進めるやり方を取ることで、あらゆるものが中途半端な整備に終わるといったシナリオは防げると言うわけだ。
こうしたやり方は、お手本がないわけではない。番組では触れてなかったが、ロシアでは似たような政策がプーチン政権によって進められてきた。
ロシアは承知のとおり馬鹿でかい国土に、住民が散在して住んでいた。ソビエト時代には、どんな小規模な集落でも社会資本や教育といったインフラの整備を進めてきたが、プーチンは、小規模な集落には金を使うのをやめてしまった。その結果何が起こったかといえば、学校や道路の整備から見放された住民が、社会資本の充実した地域に移り住み、従来あった集落が次々とゴースト・タウンになったことだ。これはシベリアのような極地ばかりでなく、西ロシアでもおこったことだ。
この政策は、意図的に街を見捨てることによって、結果的に住民の移住を図る、巧みな強制移動といえる。
しかし日本の場合には、そんな乱暴なことはとてもできない。なにしろ日本人は徳川時代の昔から、国土の隅々まで手をいれて、人間が住んだり収穫ができたりすることにいそしんできた歴史があるからだ。
しかし今のままでいいということにはならない。この先日本の人口がますます減少することを考えれば、適切なインフラとはどういうもので、今後どのようにそれを維持していくかについて、国民的な議論が必要だろう。
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