半藤一利「遠い島ガダルカナル」

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半藤一利著「遠い島ガダルカナル」を読んだ。半藤さん得意の戦史もので、事実の追跡といい、するどい批評眼といい、なかなか読みごたえがある。歴史書というより、ノンフィクション小説を読んでいるような感じがした。

ガダルカナルを巡る攻防は、日米の命運をわけた歴史的な意義をもつ戦いだった。日本はこの攻防に敗れることで、アメリカ側に太平洋の制海権、制空権を握られ、戦争遂行能力を劇的にそがれることとなる。制海権を奪われたうえに、飛行機や船舶などの軍事力も低下し、どう贔屓目に見ても勝てる状態ではなくなっていったわけである。

その天下の分かれ目ともいえるガダルカナルを巡る攻防に、陸海軍の首脳部はどう臨んだか。それが半藤さんの問題意識である。その問題意識を半藤さんは、いくつもの「もしも」で表している。あのとき「もしも」こうであったなら、或は歴史が変わっていたかもしれない、その「もしも」である。

ガダルカナルの攻略は、あまりにも無謀といえた。陸軍の拠点があったラバウルからも、海軍の拠点があったトラック諸島からも、あまりにも離れていた。ゼロ戦がやっとたどり着いても、わずか20分くらいしか現地作戦ができない、それを超えると燃料切れになって帰還できない。そんなところをどうやって守っていくのか、誰が考えてもあきらかに無謀なことを、陸海軍の首脳部は無謀だとは認めようとしなかった。いや、少しくらい無理があっても、そこは精神力で補えばよい、日本軍の旺盛な戦闘精神をもってすれば、アメリカなど敵ではない、こうした傲慢さが、日本軍を叩きのめしたのだ。「もしも」もう少し冷静でありえたなら、こんな無様な敗北は避けられたかもしれない、半藤さんは、そういうのだ。

そもそもガダルカナルは飛行場の構築場所として位置付けられていたものだ。この島がアメリカとオーストラリアを結ぶ航路に位置していることから、ここを拠点に制空権を握ることで、米豪の連携を中断するとともに、西太平洋に展開する日本軍の防衛拠点にできる、と海軍の方は考えていた。

こうした次第で、この作戦を主導したのは海軍のほうだ。陸軍は海軍に協力するという立場で、この攻防に加わったにすぎない。こんなわけで、ガダルカナルの戦略的な位置づけをめぐる陸海両軍の認識には当初相当の齟齬があったといえる。

陸軍の方は、この島をめぐる攻防を、どちらかといえばあまり重視していなかった。それ故、アメリカとの攻防線が始まっても、ここに集中的に資源を投入しようとする姿勢が見られなかった。ずるずると小出しにして資源を投入する、そこをアメリカの強力な反撃にあって、じり貧になる。そんなパターンを描いた訳だ。

一方海軍の方は、ここでの戦いが日本の命運を分けることになると、ある程度は感じていた。それ故、全力を挙げて戦おうとする姿勢があった。ガダルカナルの攻防は主として日米両海軍の間で展開されたという面が強いのである。

海軍同士の戦いでは、日本は結構頑張ったといえる。節目となる海戦は三度あったが、いずれも日本海軍は善戦している。しかし結局は物量で圧倒される。度重なる海戦で失った船舶や飛行機の補充が間に合わない、アメリカの方は真珠湾の打撃からいち早く立ち直り、強大な物量を追加投入してくる。日本は体力において、到底アメリカの敵ではなかった、という状況に陥るわけだ。

陸軍に課せられた役割は、島に上陸して、アメリカによって奪われた飛行場を奪回するというものだったが、陸軍は海軍以上にアメリカの物量に圧倒され、飛行場を取り戻すどころか、兵士たちの糧秣さえ確保できない状況に追い込まれた。

半藤さんの見立てでは、昭和17年の秋の時点で日本は事実上敗北しており、その時点で撤退をするべきだった。しかし実際に撤退したのは翌年になってからだ。その間、ガダルカナルにいる日本兵は塗炭の苦しみに耐えていた。そこのところを半藤さんは次のように書く。

「陸軍も海軍も自分のほうから作戦失敗を口にすることはできない。下手をすれば撤退の責任を取らされる。軍の面目はそれを許さないのである。そこで共同研究で奪回不可能の結論が出れば、ともに面子をつぶさずに撤退作戦が討議できる。これを参謀の空論という。ガ島では、毎日のように50人余りの将兵が餓死している。幽鬼のようになっていても、辛うじて立てる者はなお血と汗と涙をもって、鋼鉄と火薬に激突し戦っている。穴倉から細首を出して、骸骨のような兵隊がなおも敵をしりぞけつづけていた。対して東京では、体面とか体裁とか主導権争いとか、はっきりいえば、人間の怠慢と不誠実と無責任とが戦われていたのである。やんぬるかな」

半藤さんは、実際にガダルカナルの地獄を体験した兵士たちの証言に基づいてこの本を書いている。だからそのいうことには迫力がこもっている。

ひとつだけほっとさせられるのは、最終的な撤退作戦が成功裏に終わり、多くの日本人将兵の命が救われたことだ。この撤退作戦を遂行したのは高速の駆逐艦隊だった。海軍はすべての駆逐艦をつぎ込んで、三次にわたり将兵の撤収をおこなった。アメリカの歴史家モリソンは「世界海戦の歴史において、これほど見事な撤退戦はなかった」と激賞しているそうだ。

この攻防における日本軍の損害は、「海軍が艦艇24隻喪失,計13万483トン、航空機893機、搭乗員2362人戦死。陸軍が投入した兵力3万3600人のうち、戦死約8200人、戦病死者約1万1000人、そのほとんどが栄養失調、下痢、マラリアすなわち餓死によるものである。たいして米軍は、海軍艦艇24隻沈没、系12万6240トン。作戦参加の陸軍及び海兵隊計6万人のうち、戦死1598人、戦傷4709人であるという」

本の最後のところで半藤さんは、この作戦に寄せた天皇の言葉を紹介し、それに対する自分自身の感想を書き添えている。

「ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍はあまりにも米兵を軽んじたため、ソロモン諸島では戦況不利となり、尊い犠牲を多く出したことは気の毒な限りである。しかし、我が軍にとってはよい教訓となったと思う」
「いや、日本の軍部はこの惨たる敗戦から何も学ばなかったのである。その後の歴史がそれを我々に教えてくれる。結局は同じことを際限なくつづける・・・」


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このページは、が2012年5月 1日 18:05に書いたブログ記事です。

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