ガダルカナル島の死闘:児島襄「太平洋戦争」

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ミッドウェー海戦の敗北に続いて、日本軍が連合軍に敗退したガダルカナル島の戦いは、日本のその後の敗色を濃厚なものにした。しかもその負け方は、日本にとって厳しいものだった。相手の能力を甘く見たことが災いして、中途半端な攻撃を繰り返し、それがことごとく失敗していく過程で、のっぴきならない事態に追い込まれていったのだ。

それでも全戦局を通じて海軍が健闘したことは、半藤一利さんの「遠い島ガダルカナル」にあるとおりである。それに対して陸軍側は、まったくいいところがなかった。連戦連敗といってよい。無論そのことの背景には、海軍力で圧倒できなかったために、制海権と制空権を握ることができず、武器弾薬はおろか、糧秣の輸送もままならなかったという実態がある。それにしても、陸軍による陸上の戦いの面では、一方的でみじめな敗北に終わった。

ガダルカナル島に最初に進出したのは海軍のほうである。ミッドウェー海戦の10日後6月16日を手始めに、海軍設営隊が上陸した。目的は飛行場の建設である。ガダルカナル島は、アメリカ本土とオーストラリアとの中継点にあたっているため、ここを攻略することはアメリカとオーストラリアを分断し、連合国側の戦力を削ぐうえで重大な意味を持っている。逆にアメリカにしてみれば、ここを抑えられることは何としてでも避けねばならぬ。

というわけで、連合国軍ははやくも8月7日には1万人以上の海兵隊を上陸させて、島の奪回に向けた動きを開始した。日本の設営隊は、優勢な連合国軍の進出に押され、飛行場の西側へ退避して、味方の応援を待った。

このアメリカ側の動きを参謀本部は正確に分析できず、残敵による妄動くらいにしか見なかった。それ故少数の部隊で鎮圧可能と判断して、一木大佐率いる先遣隊900名余りを上陸させた。その援護活動として海軍による作戦、第一次ソロモン海戦が起きている。

海戦では勝利できたが、一木支隊は惨憺たる敗北を喫した。敵に関する情報がほとんどない状態で、正面から襲い掛かる戦法をとったために、アメリカ軍による嵐のような射撃にさらされ、ほぼ全滅したのである。

一木支隊に続いて、川口少将率いる第35旅団約4000名が上陸した。その援護活動の一環として第二次ソロモン海戦が起こった。

川口少将は、一木支隊の失敗をもとに、正面からではなく背後から襲い掛かる計画を立て、飛行場の南側から敵にせまる戦術をとった。しかしそこはジャングル地帯で、武装勢力が移動するのは困難を極めた。こうして隊列が完全にそろわず、準備も不十分な状態で、攻撃命令が出された。結果はやはり惨憺たるものだった。日本側は戦死487、戦傷396を出して退却せざるを得なかった。

ジャングルの中に退却した日本兵を観察していたアメリカ軍は妙なことに気付いた。日本兵はジャングルの中で一人ぼっちでしゃがみこんで脱糞する習慣をもっているというのだ。それに対してアメリカ兵は、決して一人にならず、集団で尻を並べて脱糞するようにしていた。そのほうが安全だからだ。

そこでアメリカ側は、ジャングルを偵察するときには異臭に注意し、一人でしゃがんでいる日本兵をみつけたらその場で射殺し、日本兵の荷物を奪うようにと指示した。目的は日本兵がつけていた日記だ。日本兵ほど日記をつけることの好きな兵隊は世界中どこにもいない。しかもその日記に中には、作戦上貴重な情報がいっぱい埋まっていた。こうしてアメリカ側は、日本側の動きを細かいところまでチェックしていたというのである。

反撃の第三波として、丸山中将率いる第2師団が上陸した。今度は2万という本格的な兵力である。それを援護する作戦の過程でサボ島沖夜戦が起こった。緒戦では、飛行場を砲撃して、アメリカ側の戦闘機を多数撃墜するなどの戦果もあったが、島内決戦ではまたもや痛い敗北を喫した。というのも、川口隊とまったく同じ攻撃方法をとって、アメリカ軍の嵐のような砲撃、射撃に粉砕されたのである。

この攻撃戦で戦死した古宮大佐は、次のような遺書を残していた。

「多くの将兵を無駄死させ、かかる結果を招きたることは慙愧に耐えず。吾人は火力を軽視すべからず。火力十分ならば兵の行動は果敢となり、その気力また充実するも、火力不足ならば消極的ならざるを得ず。魂は万古不滅なり。数日間の疲労激しく、眠たし。本日,天命を終うるにあたり悔いなし」

第4波として、佐野中将率いる第38師団が上陸したが、それを援護する形での第3次ソロモン海戦がうまくゆかず、日本側は必要な物資の輸送ができなかった。制海権も制空権も完全にアメリカ側に握られてしまったからだ。

いまやガダルカナル島には、第2師団と第38師団を中心に2万8000人の兵が存在したが、ほとんどの将兵はマラリア、デング熱、アミバ赤痢に犯され、全将兵が飢えていた。

こうした中で日本軍にできることは切り込み隊による奇襲くらいだった。その奇襲の様子をアメリカ海兵隊員は次のように記録している。

「日本兵は恐怖という文字を教わらなかったに違いないと、海兵たちはあとで語り合った。日本兵は戦友が倒れても、軍刀を振りかざす指揮官が倒れても、いや自分に弾丸が命中してさえも進んできた。海兵たちは、自分のまわりにいる者がすべて日本兵のような恐怖にとらえられ、ただ夢中でライフルを撃ちまくった」

いまや日本軍の敗色は決定的だった。対してアメリカ側は、新しい部隊と豊富な資材が次々に加わって、戦力はまずます充実していった。

日本軍の首脳部も、この事実を認めないわけにはいかなかった。そうして、いつくかのやりとりと時間をかけて、ガダルカナルからの撤退が実行された。


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このページは、が2012年6月 5日 18:20に書いたブログ記事です。

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