ドイツは第二次世界大戦の敗戦国として連合国の占領を受け、連合国の思惑に振り回されながら戦後の復興を成し遂げたという点で、日本とは大きな共通点がある。しかし、冷戦のあおりをうけて国が分裂し、東西が鋭く対立したこと、その過程で国土の大きな部分を失うことになったこと、などの点では、日本よりはるかに困難な歴史をたどってきた。そんなドイツの戦後史について、筆者はまだ体系的にカバーしたことが無かったので、その穴を埋めようと、まず取り掛かったのがこの本である。
三島憲一氏は歴史家ではなく哲学者であるから、この本も通常の歴史書の体裁とは異なり、戦後ドイツの精神的な風景についてもっぱら描いている。副題に「その知的歴史」とある所以だ。
したがって、政治や経済など社会の動きについては表立ってテーマとされず、しかも、カバーしているのは、西ドイツの知的歴史であって、東ドイツについてはほとんど触れていない。
氏の視点は、アドルノやホルクハイマー、そしてハーバーマスらに代表されるフランクフルト学派のそれとほぼ重なっているようだ。彼らは戦後ドイツの知的な再出発を、まずきちんとした過去の反省から始めよと主張した。過去の反省の中でも、もっとも重要なものは、ユダヤ人の虐殺だ。この非人道的な出来事を、徹底的に反省しない限り、ドイツ人は、未来に向かって進む資格はない、そのように彼らは主張したわけだが、その主張に三島氏も共感しているようだ。
ナチスの犯罪について徹底的に反省することなしに、ナチスの時代を通り過ぎて古き良き時代のドイツなるもののイメージを復活させ、そのイメージに立って新しいドイツを云々する者は知的欺瞞者である。アドルノらはそう主張した。ある種、自虐的ともいえる立場だ。そうした立場に立てば、ゲーテを軽々しく論じることは知的欺瞞であるということになる。したがって、新しいドイツとそのシンボルとしてのゲーテを云々している限りにおいて、トーマス・マンも欺瞞的だということになる。実に徹底した自己批判である。
こうした複雑に屈折した感情があったからこそ、戦後の西ドイツの知識人は東西ドイツの統合にあまり深くかかわろうとしなかったのではないか。東西ドイツの統合は強大なドイツの復活を意味する。それはまた、ドイツ人の傲慢な自尊心に火をつけかねないかもしれない。そんな西側の本音の意見に、ドイツ人として有効に反論しなかったのは、自分自身にやましい感情があったからだ、という憶測もなされるわけである。そういう点は、日本とは決定的に異なる。
日本の場合には、戦争責任について、国を上げての大きな論争が行われたこともないし、いわゆるA級戦犯たちが、はやばやと公職に返り咲いたりもした。ドイツ人の感覚からすれば、理解しがたいということになるのだろう。
そんなドイツでも、70年代後半ともなれば、いつまでもナチスの事にかかずらうのはやめ、ドイツ人としての誇りを公然と語ろうではないかという雰囲気が現れてくる。こうした時代思潮に反発した左翼の連中が過激化し、テロを連発させるような事態も起きた。しかしそうしたジグザグを重ねながらも、ドイツ人は次第に民国の誇りを取り戻し、偉大なドイツについて語るようになりつつある。そんな状況の下で、ついに東ドイツが西ドイツによって統合された。まさに吸収合併と言えるような、一方的な統合であった。
統合を果たしたドイツは、今後どこに向かって歩むのか。それはドイツ人自身にとってのみならず、世界中の関心事だ。
ところで、ドイツ人の自虐的なところは、ドイツ人の歴史の中に根拠があると三島氏はいう。ドイツ人には、自らを罵らずには自らを語ることができない、という奇妙な癖がある、というわけだ。
「ドイツ人は自分がいかに下劣かわかっていない。これはもう下劣の最高級だ。ドイツ人であることを恥じることするしないのだ」これはニーチェの言葉だ。また、ゲーテでさえも、「ドイツ人よ、国民になろうなどと望んでも無駄である。そのかわりに、より自由な人間に自分自身を育てることだ」と言った。つまりドイツ人は、個人としてはともかく、国民としては最低だと言わなければ、ドイツの偉大さを語ることができないのである。
かつてボードレールは、ベルギー人を散々罵った挙句、ベルギー人としてこの世に生まれたのは、前世で犯した罪の償いのためであり、ベルギーはこの世の地獄であるといって、隣国のベルギーを散々罵ることからベルギー論を始めようとしたが、それと同じく、ドイツ人は祖国を地獄だと罵ったうえでなければ、祖国を論じることができない、哀れな民族だというわけなのだろうか。
コメントする