淡島椿岳、寒月父子:山口昌男「敗者の精神史」

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山口昌男氏の「敗者の精神史」のうち、まず第5章、第6章と拾い読みしていたところ、依田学海の周辺人物として、淡島椿岳、寒月父子の名前が出てきた。父親の椿岳の方は、晩年向島に庵を結び、同じく向島に別邸をもっていた学海とは近所付き合いをしていたという。それもなかなか洒落た付き合い方だったというので、筆者は俄に興味を覚え、この本の中で、椿岳、寒月父子を取り上げている第3、4章に戻った次第だった。

第3章は「軽く、そして重く生きる術」と題して、椿岳を取り上げている。淡島椿岳は、山口氏が平凡社の人名大辞典を引きながら紹介しているところによると、幕末明治の画家ということになっているが、今日ではほとんど知られることがない。依田学海は日記の中で戯画の名人といっているが、どうも鳥羽僧正の戯画の影響を受けた軽妙洒脱な絵を描いたらしい。

しかし山口氏が淡島椿岳に注目するのは、絵の才能ではない。彼の破天荒な生き方なのである。

椿岳は川越の裕福な農家の三男に生まれ、日本橋馬喰町の軽焼屋淡島の養子になったが、のち淡島を去って水戸藩士小林氏の株を買い、婿入りした。晩年は浅草奥山の淡島堂に隠居して、やりたい放題のことをやった。日本人として初めてピアノを叩いたり、ジオラマの見世物興業をしたり、鵜飼玉川や下岡蓮杖など江戸の遺老といわれた連中を集めては、江戸趣味に耽ったりした。つまり、維新後の世の中にあって、名望を求めず、市井に埋没して趣味の世界に生きたわけである。

そんな生き方ができたのは、金に困らなかったからだ。自身養家淡島からの収入のほかに、兄伊藤八兵衛は成金の大金持ちだったから、その筋からも金の工面は期待できただろう。とにかく金を湯水のように使ったらしい。生涯に養った妾の数が160人というから、半端なものではない。

最晩年には向島に庵を結び梵雪庵と名付けた。近所には学海の墨水別墅があった。学海の日記には、愛妾瑞香を伴って梵雪庵に赴き、瑞香と椿岳の妾小城とが、月琴を弾じたという記事が見える。生涯を優雅に暮らしきったことが伺える。実にうらやむべき生き方だったといえる。

椿岳の子寒月については、第4章の「明治大正の知的バサラ」の中で取り上げている。表題にあるバサラとは、太平記に出てくる奇想天外な英雄たちをさしていった言葉だが、その言葉が寒月にも似合うというのだから、寒月という男は、父親の椿岳以上にユニークな男だった、と氏は評価しているわけであろう。

子の寒月を、父親の椿岳は、淡島を出るときに、人質として残したのだった。その寒月は淡島の御曹司として生涯を送り、父親同様、世の中の要職に就こうという気はさらさらになかった。豊かさを武器にして、勝手次第な生き方をしたわけである。

寒月が今日までその名を知られる所以は、西鶴の再発見者としてである。西鶴は徳川時代の後半には忘れられた存在に成り果てていたが、その西鶴の書いたものをひとつづつ探し出しては読破し、友人たちに吹聴したのであった。それが硯友社の尾崎紅葉に伝わり、紅葉を通じて全国の文士仲間にも伝わっていった。寒月あらずして西鶴の復活もまたなし、とは必ずしも言えないだろうが、寒月が西鶴再発見に果たした役割には大なるものがあったといってよい。

幸田露伴を依田学海に紹介したのも淡島寒月である。学海の日記によれば、ある日寒月に伴われた露伴が一冊の小説を持参した。それを読んだところが非常に面白かったとある。露伴はその時点では必ずしも小説家になりたいと決めていたわけではなかったようだが、学海に励まされたことが機縁になって、小説家になっていったと考えられるのである。

寒月の趣味は実に広範囲にわたった。生方敏郎の紹介するところによると、その渉猟した世界は、西鶴のほかに、禅、古美術研究、考古学、キリスト教研究、進化論、社会主義、絵、能・謡曲といった具合だった。それらの趣味は生涯の異なった時期に前後して没頭したものであるが、絵は終世之をたしなんだ。また若年のころに夢中になった西洋かぶれは、生涯を通じて持した。晩年には古物のコレクションに没頭し、それらを自宅に陳列して私設博物館の様相を呈したが、残念なことに、関東大震災の折に灰燼に帰した。

とかくスケールの大きさを感じさせる寒月を、山口氏は、柳田国男と南方熊楠と比較しながら、次のように評している。

「寒月はその気になりさえすれば、柳田出現以前に軽く柳田になりうる実力とスタイルの所有者であったと言えよう。しかし、お上に仕える気のさらさら無かった寒月は、その道を歩まなかった。それに生き方としては、むしろ南方熊楠に近い方を選んだのである」

また、寒月の死を悼んだ露伴の次のような文章を引用している。

「氏の一生を通じて、氏は有り余るの聡明を有してゐながら、それを濫用せず、おとなしく身を保って、そして人の事にも余り立ち入らぬ代りに、人にも厄介を掛けず人をも煩はさず、来れば拒まず、去れば追はずという調子で、至極穏やかに、名利を求めず、ただ趣味に生きて、楽しく長命した人であった」

父子揃って実に敬服すべき生き方だったと、筆者もまた同感するところが多いのを感じる次第だ。


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このページは、が2012年8月 7日 18:09に書いたブログ記事です。

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