芸能と演劇的世界


近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」が初演されたのは元禄16年(1703)5月、作品の題材となった心中事件がおきてからわずか一ヵ月後という早さだった。空前の大当たりとなり、その後享保2年(1717)と同4年(1719)年に再演されたが、その後はどういうわけか上演の機会がなく、230年後の昭和30年になって文楽座によって復活上演された。現在我々が接する曽根崎心中は、このときの上演が基本となっている。

近松門左衛門の世話浄瑠璃「曽根崎心中」は、最後の部分をお初徳兵衛の死出の旅の道行文で飾っている。その稀代の美しさが、儒学者の荻生徂徠でさえ感嘆せしめたと、後に大田南畝が書いているほどの名文である。

曽根崎心中天満屋の場面は、お初徳兵衛の若いふたりが心中を誓い合う場面であり、この作品の中核をなす部分だ。近松はそれを二つのシーンを通じてドラマティックに盛り上げていく。ひとつは縁の下に身を隠した徳兵衛に、お初が足で合図するシーンであり、もうひとつはふたりが手をとりあって暗闇の中を逃げていくシーンである。

お初の観音めぐりは生玉の社で終わる。そこの茶屋で休んでいると、徳兵衛が丁稚を連れての得意先周りを終えて通りがかる。こうしてふたりの対話が始まり、その対話の中で徳兵衛の苦境が明らかにされる。この二人の、心中までに到る不幸とは、まず男のほうに理由があった。女はそんな男が恋しさに、自分も道沿いになって心中しようと決意するのだ。

近松門左衛門が「曽根崎心中」の冒頭に観音めぐりの道行を加えたいきさつについては、先稿で簡単に触れた。観音を始めとした霊社・霊寺めぐりの道行は、中世から徳川時代の初期にかけて、民衆の信仰心に訴えるものがあったらしく、能や説経そして古浄瑠璃の中で繰り返し歌われてきたのである。

「曽根崎心中」は、近松門左衛門という浄瑠璃作者にとって一代の転機となった作品であるばかりか、浄瑠璃の歴史、ひいては日本の演劇の歴史においても画期をなす作品である。この作品以後、浄瑠璃の世界には世話物というジャンルが確立されるが、その影響は浄瑠璃を越えて歌舞伎の世界にもおよび、その中から悲劇の日本的な形態が形作られていくのである。

近松門左衛門の作品は浄瑠璃のために書かれたものであるから、その内容には浄瑠璃を語るために必要最小限の工夫が盛られている。それは簡単にいえば、語りの本文である詞章と節回しや舞台の進行を指示する節章からなる。今日の出版物の中には、節章を省いて詞章のみを載せるものがあるが、これは文学作品として読む場合にはともかく、浄瑠璃作品として読む場合には、正しいやり方とはいえない。

作家としての近松門左衛門の生涯は、大きくいって三つの時期に分けられる。古浄瑠璃作者として出発した時期、主に歌舞伎狂言を書いた時期、そして曽根崎心中以降、世話浄瑠璃を始め浄瑠璃に新風を吹き込み、新浄瑠璃の世界を完成させた成熟期から晩年までの時期である。

近松門左衛門が日本演劇史上の巨星として抜きん出た地位を確保するようになったのは、坪内逍遥の功績によるところが大きい。坪内逍遥はシェイクスピアの研究を進める一方、日本の演劇史の中から近松門左衛門を取り上げ、これをシェイクスピアと比較しながら、彼我の演劇の本質について考究したのだが、これによって近松門左衛門は、日本の演劇を代表する作家として受け取られるようになったのである。

幸若舞の一派である大頭流の舞が、福岡県の大江地方に伝わることについては、別稿で述べたとおりであるが、このたびその実際の模様を保存した映像を、ネット上に発見した。(ここをクリック

金平浄瑠璃

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金平浄瑠璃とは明暦末年(1658)から寛文年間(1661-1672)にかけて流行した古浄瑠璃の一群である。わずか十数年で観客から飽きられて、歴史の舞台から消え去ってしまったが、いろいろな意味で、浄瑠璃の歴史を大きく変えた。一言で言えば、古浄瑠璃から新浄瑠璃への橋渡しを行うにあたって、大きな役割を果たしたのである。

浄瑠璃が人形遣いと結びついて操り浄瑠璃となり、ひとつの盛期を迎えたのは慶長年間のことである。その折の様子を「東海道名所記」が次のように書いている。

浄瑠璃の歴史が浄瑠璃御前物語というものから始まったことはほぼ定説となっている。この物語は東海道の宿場を舞台に展開されたもので、宿場の遊君と義経との恋をテーマにしたシンプルな物語だ。

白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて栄えた芸能の一種である。散楽から派生した諸々の芸能とは異なり、独自の歩みをたどったものらしい。平家物語は、祇王や静御前ら当時の有名な白拍子を描いており、一つの時代を画した遊女のあり方だったように思える。

太平記の時代は、日本の歴史のうちでも、まれに見る動乱の時代であった。権力をめぐる争いが全国規模で展開されたと同時に、古い秩序が瓦解し、人々の生活基盤ががらりと変わりつつあった。このような世にあっては、勝ち組、負け組みの差が歴然となり、人は勝ち残ろうと欲すれば、悪党たちのようにたくましくならないではおれなかったろう。

石母田正の労作「中世的世界の形成」は、伊賀国黒田荘を舞台に、東大寺による古代的な荘園支配が揺さぶられ、荘民たちによる権力の略取と自立を求める過程を描き出していた。やがては、この動きの中から、古代的な支配体制に替わる、封建的な仕組が生まれてくるのであるが、石母田はそこに、中世的世界の形成を読み取ったのであった。

楠木正成は、太平記の群像の中でもとりわけ異彩を放ち、時代のヒーローとして描かれている。南朝方の武将の中で、正成ほど敵を震え上がらせたものはない。戦いぶりといい節度といい、その生き様は、足利方の視点から書かれた「梅松論」においてさえ、あっぱれと賞賛されている。また、戦前の権威主義的な教育にあっては、忠君愛国の士と称揚され、皇居前広場に銅像が立てられたほどであった。

太平記の世界を吹き抜けたバサラ(婆娑羅)の風を、一つの言葉に凝集せしめようとすれば、それは佐々木道誉という名であろう。道誉は動乱に明け暮れたこの時代にあって、悪党たちのトレードマークともいうべき異形の姿で人の目を抜き、華美豪奢浪費三昧の振舞で世の物指をくつがえし、あらゆる権威を超越するかの如き不敵さが、世人をして婆娑羅大名といわしめた。様々な意味で、いかがわしさに満ちていたこの時代を象徴する人物である。

太平記の魅力の中でも最も大なるものは、後醍醐天皇を頂点として、登場人物たちが実にユニークであることだ。日本の長い歴史の中で、こんなにも短い期間に、かくもエネルギーに満ちた人物がひしめき合った時代は、そう多くはない。しかも、権力者にとどまらず、社会のあらゆる層に、そのような人物を見出すのである。

太平記は、平家物語とならんで、軍記物の代表とされている。後醍醐天皇の即位と北条氏の滅亡、南北朝の動乱から足利氏による天下平定までに至る、戦乱の世を描いた作品である。客観的な歴史認識というよりは、怒涛のように激しく移り変わる世の有様を、まさに同時代を生きた当事者の目を通じて描いている。この臨場感が、作品に生命を吹き込み、聞く者読む者をして、感動せしむるのである。

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