能と狂言


100305.kakiyamabushi.jpg

狂言「柿山伏」はわかりやすい筋書きで単純な笑いに満ちているので、初心者にもとっつきやすい作品だ。そんなところからよく上演される。演じる役者も若い人から年配のものまで幅広い。

100201.matukaze2.jpg

松風は、熊野松風に米の飯といわれるように、古来能としても謡曲としても人気の高かった曲だ。在原行平の歌をベースに、行平の恋の相手であった海女松風村雨の切ない思い出語りを、源氏物語須磨の巻の雰囲気を借りてしみじみと演出したものだ。また終わり近くでは、松風が狂乱状態で舞うなど、構成に変化があって、観客は飽きることがない。

100105.makiginu.jpg

能「巻絹」は、熊野三山を舞台にして、歌の功徳を歌ったものだ。筋書きはごく単純で、熊野に絹の奉納を命じられた使者が、途中音無の宮で歌を詠んだりして遅れたことを理由にいましめを受けたところ、熊野の神が巫女に乗り移って現れ、歌の功徳に免じて使者のいましめを解いてやるというものである。

100101.yashima.jpg

NHK恒例の元旦の能番組が、今年は観世流の「八島」を放送した。シテは梅若玄祥が演じていた。テクストについては別稿で紹介したのでここでは詳しく触れないが、正月を飾るに相応しい、なかなか見ごたえのある舞台だった。とくに最後に近いところでのカケリがよかった。

091115.sagi.jpg

能には鶴亀や猩々など動物を題材にしたジャンルのものがいくつかあるが、おおむねめでたさを祝う、祝祭的な雰囲気のものが多い。鷺もまたそのような祝祭的な雰囲気に満ちた能である。

091110.iwahune.jpg

能「岩船」は筋らしい筋もなく、ただめでたさを寿ぐといった趣向の曲だが、かえってそのことが幸いしてか、祝言の曲としてよく上演される。作者や成立時期はわかっていない。音阿弥が上演したという記録が残っているので、室町時代の中ごろには成立していたと思われる。

能「三井寺」は母子の別れと再会を主要テーマにし、それに三井寺の鐘の風情を絡ませた作品である。子と引き裂かれた母親が狂女となって子を捜し求め、やがて仏の霊験に導かれて再会を果たすという点では「百万」とよく似ている。百万同様古くからあった演目のようだ。世阿弥の時代には「鐘の能」として知られていた。

能「賀茂」は京都賀茂神社の縁起譚を脇能の形に仕上げたものである。その縁起譚によれば、昔賀茂の里に住んでいた秦の氏女が朝夕鴨川の水を汲んで神にささげていた。ある時川上から白羽の矢が流れてきたので、それを持ち帰って軒にさしておくと、懐胎して男子を産んだ。この母子が後に神となって、白羽の矢に化身した別雷の神とともに、賀茂神社に祭られたとある。

能「西行桜」

| トラックバック(0)

能「西行桜」は世阿弥の傑作のひとつである。西行の歌に着想を得て、歌人と花の精との即妙なやりとりを描きながら、桜の花の持つ濃艶な雰囲気をかもし出している。

能「井筒」は世阿弥の幽玄能の傑作で、世阿弥自身自信作と考えていたことが「申楽談義」のなかにもある。筋らしいものはなく、全曲がゆったりと進んでいくが、秋の古寺の趣と女の清純な恋情とがしっとりと伝わってくる。

能「橋弁慶」は「安宅」や「船弁慶」とともに、義経・弁慶伝説に題材をとった作品である。通常の伝説では、五条の橋に夜な夜な現れて人を切るのは弁慶のほうであり、それを義経が退治したことが機縁になって、二人は主従として結ばれる。しかしこの話では役どころが逆転している。つまり五条の橋で人を切るのは義経ということになっており、それを弁慶が退治しに行くのである。

能「巴」は巴御前と木曽義仲の悲しい死に別れを描いた作品である。分類上は修羅者に入れられるが、通常の修羅者とは趣を異にしている。

能「大仏供養」は平家の武将悪七兵衛景清を描いた作品である。史実に基づいたものかどうか証拠に乏しく、作者もよくわかっていない。平家の遺臣として庶民の間で同情の厚かった影清を主人公に、立回りの能を作ろうとしたのであろう。景清を主人公にした能には外に「景清」があるが、そちらは晩年の盲目の景清を描いており、両者の雰囲気は非常に異なっている。

能「蟻通」は、蟻通明神の縁起談に紀貫之の歌をからませ、もの咎めで有名な蟻通明神の怒りを和歌の徳によってなだめるという趣旨の物語である。

今年も東京の桜は三月のうちに満開になって早くも散り始め、子どもの入学式までもたなかった。桜の咲く季節には決まって演ぜられる能の曲目があるが、それらも今年は葉桜を見ながら観劇することになりそうだ。

能「芭蕉」は芭蕉の精を主人公にし、その成仏を主題にした珍しい作品である。能にはほかに、梅、藤、桜(西行桜)、柳(遊行柳)など草木の精を主人公にした作品があり、かつては人間以外のものを取り上げていることから5番目に分類されていた時期もあったが、現在ではいづれも3番目に数えられている。

能「泰山府君」は、桜花爛漫の季節を舞台に、万物の生命を司るとされた道教の神泰山府君に、桜の命を永らえさせてもらおうという願いを歌い上げた曲である。これに天女が桜の枝を折るという趣向が付け加わり、話の筋に変化が生じている。後段では泰山府君が勇壮な舞働きを、天女が優雅な舞を舞い、小品ながら華やかで見ごたえのある作品である。

能「小袖曽我」は、曽我ものと呼ばれる一連の作品の中でもっとも人気の高い曲である。観世流謡曲では初級謡本の中に収められているから、謡ったことのある人も多いだろう。

富士太鼓は、太鼓を巡る芸道の執念を描いた作品である。テーマは二つあり、ひとつは富士と浅間に名を借りた芸人同士の争い、ひとつは討たれた夫の敵討ちをする妻と子の悲しみである。

狂言記は徳川時代の初期に刊行された狂言の絵入台本集である。万治3年(1660)に正篇、元禄13年(1700)に外篇と続篇、享保5年(1730)に拾遺篇が刊行されている。それぞれ50曲づつ、計200曲からなる。

Previous 1  2  3  4




アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち35)能と狂言カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは31)芸能と演劇的世界です。

次のカテゴリは41)万葉集を読むです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。