能と狂言


能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。

能「鞍馬天狗」は、牛若丸が沙那王といった幼年時代を題材にして、大天狗が沙那王に武術を教え、平家を倒し源氏の再興を期するという内容の物語である。桜の季節を背景に、シテ(天狗)と子方(沙那王)がやりとりする光景は、色気を感じさせるものであり、これを男色の能と見る見方もある。

能「花月」は喝食の美少年に芸づくしを演じさせるというもので、小品ながら変化に富み、祝祭的な雰囲気に満ちた華やかな能である。

狂言「蝸牛」は理屈抜きに楽しめる作品である。山伏がシテを勤めるので演目上は「山伏物」に分類されるが、太郎冠者のとぼけぶりとあいまって、初めて作品としての面白さが発揮される。筋はごく単純なものだが、当意即妙のやり取りと、山伏の踊りがなんとも言えず滑稽であり、観客を引き込んでやまない。狂言の中でも、祝祭性に富んだ作品であるといえる。

能「合甫(かっぽ)」は、漁師に釣られた魚が通りがかりの者に助けられ、そのお礼に宝を差し上げるという内容の、一種の動物報恩譚である。中国を舞台にしているが、出典は不明。小品ながら、さわやかな印象の作品である。

能「道成寺」は現行の能の中でも大曲の部類に入り、また位の高い作品として扱われている。静と動のコントラストが激しく、また鐘の作り物など、舞台の演出も派手で、緊迫感に溢れた作品であるが、演じ方がまずいと散漫に流れ、観客をいらいらさせたりしかねない。能楽師にとってはむつかしい作品とされ、したがって一定の成熟を経た節目の時期に始めて演ぜられる。

能「経政」は小品ながら良くまとまった作品である。他の修羅能のように複式夢幻能の体裁をとらず、一場で構成されている。動きは少なく、筋も単純だが、音楽的要素に富み、幻想的な雰囲気に溢れているので、観客を飽きさせることはない。作者は不詳、平家物語巻七に題材をとったと思われる。

現在狂言界で活躍している家は、大きく分けて大蔵流の山本派、茂山派、和泉流の三宅派、名古屋派である。二流四派ともいわれる。

能は日本人が世界に誇りうる古典芸能である。既に14世紀には完成の域に達していたから、600年以上もの歴史を有する。

狂言は歴史的には能とともに歩んできた。現在では、能と狂言を合わせて能楽と呼び習わしているが、そう称されるようになったのは明治時代以降のことで、徳川時代以前には申楽と呼ばれていた。明治政府が外国人をもてなす演目として申楽を選んだ際、名称が風雅に欠けるというので、能楽の字をあてたのである。

能「弱法師(よろぼし)」は、難波の四天王寺を舞台にして、盲目の乞食俊徳丸と、故あって俊徳丸を捨てた父親との、再会と和解を描いた作品である。

能「蝉丸」の創作経緯にはわからぬことが多い。猿楽談義に「逆髪の能」として出てくるものが、「蝉丸」の原型であっという説がある。現行曲の「蝉丸」も、シテは逆髪になっているから、蓋然性は高い。そうだとすれば世阿弥以前からあった古い能ということになる。

信濃の更科は古来月見の名所だったらしい。これに何故か姨捨の悲しい話が結びついて、姨捨山伝説が出来上がった。大和物語に取り上げられているから、平安時代の前半には、人口に膾炙していたのだろう。今昔物語集も改めて取り上げている。能「姨捨」は、この説話を基にして、老女と月とを情緒豊かに描いたものである。

能「国栖」は、壬申の乱に題材をとった物語性豊かな作品である。壬申の乱自体、古代の王権を巡る戦いとしてドラマ性を帯びた事件であったが、ことが王権にかかわるだけに憚り多いうちにも、この作品はその辺の事情を踏まえて、演劇的な構成に纏め上げられている。現代人にもわかりやすく、人気のある能の一つである。

能「田村」は、坂上田村麻呂を主人公にして、清水寺創建の縁起物語と田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品である。観音の霊力によって敵を蹴散らす武将の勇猛さがテーマとなっており、明るく祝祭的な雰囲気に満ちた作品である。屋島、箙とともに、三大勝修羅とされ、祝言の能としても演じられてきた。

能「小鍛冶」は祝言性の高い切能の傑作である。わかりやすい筋書きに沿って、動きのある舞が華やかな舞台効果を作り上げる。囃子方と謡も軽快でリズミカルだ。全曲を通じて観客を飽きさせることがなく、現在でも人気曲の一つとなっている。始めて能を見る人でも十分に楽しめ、それだけに上演頻度も高い。

能「熊野(ゆや)」は、花見遊山をテーマにした、春の気配溢れる逸品である。「熊野松風に米の飯」といわれ、古来能の名曲とされてきた。今でも人気の高い曲で、能役者にとってもやりがいのある曲だそうだ。謡曲としても人気がある。松風が秋の能の代表作とすれば、熊野は春の能の代表作だといえよう。

能「融」は世阿弥の傑作の一つである。歴史上の人物源融が作ったという六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりを、しみじみと謡い語る。筋らしい筋はないが、月光を背景にして、静かに進行する舞台は、幽玄な能の一つの到達点をなしている。だがそれだけに、初めて能を見る人は退屈するかもしれない。

能「屋島」は、世阿弥の書いた修羅能の傑作である。世阿弥は三番目物と同じく、修羅物も得意とし、他に、通盛、敦盛、清経などの傑作を作っている。その中で屋島は、源平合戦における義経の勇敢な戦いぶりを描いたもので、勝修羅と呼ばれる。田村、箙とならんで三大勝修羅とされ、徳川時代には武家たちにことのほか喜ばれた。

菊慈童は、菊花の咲き乱れる神仙境を舞台に、菊の花のめでたさと、その菊が水に滴り不老不死の薬になった由来を語り、永遠の美少年の長寿を寿ぐ曲である。リズミカルな謡に乗って、美少年が演ずる舞は、軽快で颯爽としており、この曲を魅力あるものにしている。華やかな舞尽くしの能である。

Previous 1  2  3  4




アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち35)能と狂言カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは31)芸能と演劇的世界です。

次のカテゴリは41)万葉集を読むです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。