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万葉集を読む



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2007年02月21日

山上億良:日本挽歌と大伴旅人との交友

山上億良が筑前国守として赴任して一年余り後、大伴旅人が大宰府の師(長官)として着任してきた。億良にとっては上官の立場である。旅人は億良よりは数年若かったが、高い家門の出であり、また教養も深いものがあった。その旅人と億良とは、やがて心から敬愛しあう関係になる。

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2007年02月22日

山上憶良:七夕の歌(万葉集を読む)

山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた億良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。だが、そこにも億良らしい側面がのぞいている。

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2007年02月26日

山上億良:惑へる情を反さしむる歌

万葉集巻五に、山上億良の一風変わった歌が載せられている。「惑へる情を反さしむる歌」という。序にあるように、父母を敬はずして侍養を忘れ、妻子を顧みず、山沢に亡命する民を論難した歌である。

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2007年02月28日

山上憶良:横死者を悼む歌

万葉集巻五に、「筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為(かは)りて其の志を述ぶる歌」という、これも一風変わった歌が載せられている。序にあるとおり、相撲使という官人に従者として従い、京都に向かう途中死んだ若者がいた。その若者の志を哀れに感じた億良が、彼に替って、その志を述べたという歌である。

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山上億良:好去好来の歌(遣唐使を送る)

山上億良の最晩年、おそらく死の前年と思われる天平五年(733)、遣唐使が難波の津から唐に向かって出発した。遣唐大使は多治比広成、皇親系に属する高官であった。その多治比広成が、出発を一月ほど先に控えたある日、億良の屋敷をわざわざ訪ねてきた。かつて遣唐使の一員として唐に渡り、また、学識の深さでも聞こえていた億良から、有益な情報を得ようとしたのだろう。

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2007年03月01日

山上億良:我が子の死を悼み恋ふる歌

万葉集巻五の最後に「男子名は古日を恋ふる歌」が載せられている。その詞書に「右の一首は作者詳らかならず、但し、裁歌の体、山上の操に似たる」とあるを以て、作者について色々の詮索もなされた。今日では、これは山上億良の歌であるというのが定説となっている。筆者もそう考え、ここではそれを前提にして、話を進めていきたい。

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2007年03月05日

山上億良:沈痾自哀の文(万葉集を読む)

万葉集巻五に、山上億良の作「沈痾自哀の文」なるものが載せられている。題名の如く老病を嘆き、自らを哀れむ思いを、漢文調の文章でつづったものである。作中七十有四とあるから、死の直前に書かれたものであろう。億良の人生の総決算ともいえるものだ。

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2007年03月06日

山上億良:去りし日の青春と今生きる老年

万葉歌人のなかでも、山上億良ほど生に執着し、命の尊さにこだわったものはない。その思いは、時に路傍に横死したものへの同情となって現れ、時に貧窮問答歌における人へのいたわりとなって現れ、また子を思う切実な思いと名って迸り出た。それらの歌には、人間というものへの、限りない慈しみの感情が表現されている。

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柿本人麻呂

柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。その生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。

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2007年03月11日

山部赤人

山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉集を代表する歌人である。人麻呂より人世代後の、平城京時代初期に活躍した。その本領は、人麻呂同様宮廷歌人だったことにある。元正、聖武天皇両天皇に仕え、儀礼的な長歌を作った。大伴家持は、柿本人麻呂、山部赤人を並べ立てて「山柿の門」という言葉を使ったが、これは宮廷歌人としての、荘厳で格式の高い歌風をさしたのだと思われる。

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山上億良

山上億良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。それらの歌には、きわめて人間臭い響きがある。

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2007年03月19日

風流の歌人大伴旅人

山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。

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大伴旅人:酒の讃歌

大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。

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2007年03月20日

大伴旅人:松浦川の歌と松浦佐用姫伝説

酒を讃むる歌で、洒脱さを遺憾なく発揮した大伴旅人は、万葉の歌人たちの中でも、どことなく浮世離れした、独特の感性を歌い上げ、この国の詩歌の歴史に清新な風を吹き込んだ。その感性は、世の中とそこに生きる己を、遠くから距離を置いて、突き放すように見ているところがある。旅人以前の日本人たちには決して見られなかったものだ。

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2007年03月21日

大伴旅人:梅花の宴(万葉集を読む)

万葉集巻五に、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」が、漢文風の序とともに一括して収められている。天平二年正月、大伴旅人は管下の国司や高官を招いて宴を開いた。その時に、出席したものたちがそれぞれに、梅を題にして歌を詠みあった。この風雅を愛する大官を囲んで、宴が自然と歌会に発展したのかもしれない。

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2007年03月22日

大伴旅人:亡妻をしのぶ歌(万葉集を読む)

大伴旅人は大宰府に赴任するに際して、老妻を伴った。すでに60を越していた老大官にとって、この旅は人生最後のものになるかもしれなかった。長年連れ添ってきた妻と、いたわりあいたい気持ちがあったのだろう。この妻に子はなかった。家持は庶腹の子である。旅人はこの旅に、家持をも伴っている。

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2007年03月28日

大伴家持:青春と恋(万葉集を読む)

大伴旅人が死んだ時、子の家持はまだ14歳に過ぎなかった。家持は妾腹の子ではあったが、聡明だったのであろう、旅人は家持が小さい頃から後継者と定め、大宰府にも伴って行って、自ら教育に当たった。旅人が死んだことで、家持は最大の後ろ盾を失うこととなったが、大伴家の当主として、それなりの自由を享受するようにもなった。

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2007年03月29日

大伴家持:春の歌(万葉集を読む)

大伴家持は、天平18年(746)越中国守に任命された。時に29歳である。家持はすでに宮内少輔という地位に昇進していたが、越中の国は当時としては大国であり、そこの国守になることは決して左遷ではなかったろう。だが、若い家持にとっては、天ざかる鄙へ行くことは不本意なことであったようだ。彼は妻を伴わず、単身赴任している。

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2007年04月02日

大伴家持:池主との交流と山柿の門

大伴家持が越中国守として赴任したとき、越中国衙の官人たちの中に大伴池主の姿があった。池主の出自については確かなことはわかっていないが、北山茂夫は大伴氏の同族、それも大伴田主の子ではないかと推論している。もしそうだとすれば、田主は旅人の弟であるから、池主は家持にとっては従兄弟にあたる。

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2007年04月04日

大伴家持:弟書持の死を悼む歌(万葉集を読む)

大伴家持が越中国守に赴任した年の九月、家持は使いのものから弟書持の死を知らされた。この時家持は29歳であったから、書持は余りに若くして死んだのである。父旅人の死後、まだ少年だった兄弟は、互いに寄り添うようにして育ってきたのであろうから、弟の死は家持にはこたえたに違いない。

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