万葉集を読む


大伴家持の生きた時代、諸国に派遣された国司は妻子を伴わず、単身赴任するのが原則だったようだ。家持が越中に単身赴いたのも、この原則に従ったのだろう。だから、諸国の官衙は独り者の男たちで構成されていた。一時代前の連隊兵営を思い起こせば、その雰囲気が伝わってくるだろう。

大伴家持は花鳥風月を歌に詠む風流の人であったとともに、鷹狩や鵜飼を楽しむ行動の人でもあった。特に鷹狩を好んだらしく、鷹を詠んだ長歌を三首も作っている。ここでは、そのうち最初に作られたものを取り上げてみよう。

大伴家持は花鳥を愛した人らしく、花や野鳥を詠んだ歌が多い。花鳥を主題にして歌を詠むということは、人麻呂や赤人の時代にはなかったことである。ここに、風雅の人大伴家持の新しさがある。家持は、様々な点で、万葉と古今以後との歌風をつなぐ歌人といわれるが、その真髄は花鳥を好んで詠む姿勢にあった。

大伴家持が越中国守に赴任した年の九月、家持は使いのものから弟書持の死を知らされた。この時家持は29歳であったから、書持は余りに若くして死んだのである。父旅人の死後、まだ少年だった兄弟は、互いに寄り添うようにして育ってきたのであろうから、弟の死は家持にはこたえたに違いない。

大伴家持が越中国守として赴任したとき、越中国衙の官人たちの中に大伴池主の姿があった。池主の出自については確かなことはわかっていないが、北山茂夫は大伴氏の同族、それも大伴田主の子ではないかと推論している。もしそうだとすれば、田主は旅人の弟であるから、池主は家持にとっては従兄弟にあたる。

大伴家持は、天平18年(746)越中国守に任命された。時に29歳である。家持はすでに宮内少輔という地位に昇進していたが、越中の国は当時としては大国であり、そこの国守になることは決して左遷ではなかったろう。だが、若い家持にとっては、天ざかる鄙へ行くことは不本意なことであったようだ。彼は妻を伴わず、単身赴任している。

大伴旅人が死んだ時、子の家持はまだ14歳に過ぎなかった。家持は妾腹の子ではあったが、聡明だったのであろう、旅人は家持が小さい頃から後継者と定め、大宰府にも伴って行って、自ら教育に当たった。旅人が死んだことで、家持は最大の後ろ盾を失うこととなったが、大伴家の当主として、それなりの自由を享受するようにもなった。

大伴旅人は大宰府に赴任するに際して、老妻を伴った。すでに60を越していた老大官にとって、この旅は人生最後のものになるかもしれなかった。長年連れ添ってきた妻と、いたわりあいたい気持ちがあったのだろう。この妻に子はなかった。家持は庶腹の子である。旅人はこの旅に、家持をも伴っている。

万葉集巻五に、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」が、漢文風の序とともに一括して収められている。天平二年正月、大伴旅人は管下の国司や高官を招いて宴を開いた。その時に、出席したものたちがそれぞれに、梅を題にして歌を詠みあった。この風雅を愛する大官を囲んで、宴が自然と歌会に発展したのかもしれない。

酒を讃むる歌で、洒脱さを遺憾なく発揮した大伴旅人は、万葉の歌人たちの中でも、どことなく浮世離れした、独特の感性を歌い上げ、この国の詩歌の歴史に清新な風を吹き込んだ。その感性は、世の中とそこに生きる己を、遠くから距離を置いて、突き放すように見ているところがある。旅人以前の日本人たちには決して見られなかったものだ。

大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。

山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。

山上憶良

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山上憶良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。それらの歌には、きわめて人間臭い響きがある。

山部赤人

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山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉集を代表する歌人である。人麻呂より人世代後の、平城京時代初期に活躍した。その本領は、人麻呂同様宮廷歌人だったことにある。元正、聖武天皇両天皇に仕え、儀礼的な長歌を作った。大伴家持は、柿本人麻呂、山部赤人を並べ立てて「山柿の門」という言葉を使ったが、これは宮廷歌人としての、荘厳で格式の高い歌風をさしたのだと思われる。

柿本人麻呂

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柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。その生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。

万葉歌人のなかでも、山上憶良ほど生に執着し、命の尊さにこだわったものはない。その思いは、時に路傍に横死したものへの同情となって現れ、時に貧窮問答歌における人へのいたわりとなって現れ、また子を思う切実な思いと名って迸り出た。それらの歌には、人間というものへの、限りない慈しみの感情が表現されている。

万葉集巻五に、山上憶良の作「沈痾自哀の文」なるものが載せられている。題名の如く老病を嘆き、自らを哀れむ思いを、漢文調の文章でつづったものである。作中七十有四とあるから、死の直前に書かれたものであろう。憶良の人生の総決算ともいえるものだ。

万葉集巻五の最後に「男子名は古日を恋ふる歌」が載せられている。その詞書に「右の一首は作者詳らかならず、但し、裁歌の体、山上の操に似たる」とあるを以て、作者について色々の詮索もなされた。今日では、これは山上憶良の歌であるというのが定説となっている。筆者もそう考え、ここではそれを前提にして、話を進めていきたい。

山上憶良の最晩年、おそらく死の前年と思われる天平五年(733)、遣唐使が難波の津から唐に向かって出発した。遣唐大使は多治比広成、皇親系に属する高官であった。その多治比広成が、出発を一月ほど先に控えたある日、憶良の屋敷をわざわざ訪ねてきた。かつて遣唐使の一員として唐に渡り、また、学識の深さでも聞こえていた憶良から、有益な情報を得ようとしたのだろう。

万葉集巻五に、「筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為(かは)りて其の志を述ぶる歌」という、これも一風変わった歌が載せられている。序にあるとおり、相撲使という官人に従者として従い、京都に向かう途中死んだ若者がいた。その若者の志を哀れに感じた憶良が、彼に替って、その志を述べたという歌である。

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