万葉集を読む


万葉集巻五に、山上憶良の一風変わった歌が載せられている。「惑へる情を反さしむる歌」という。序にあるように、父母を敬はずして侍養を忘れ、妻子を顧みず、山沢に亡命する民を論難した歌である。

山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた億良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。だが、そこにも億良らしい側面がのぞいている。

山上億良が筑前国守として赴任して一年余り後、大伴旅人が大宰府の師(長官)として着任してきた。億良にとっては上官の立場である。旅人は億良よりは数年若かったが、高い家門の出であり、また教養も深いものがあった。その旅人と億良とは、やがて心から敬愛しあう関係になる。

万葉集の歌の世界には、人麻呂、赤人を筆頭にして、男女の愛を歌った相聞の歌が数限りもなくある。だが山上憶良は、他者のための挽歌は別にして、男女の愛を歌うことはなかった。そのかわりに億良は、子どもを思う歌を作ったのである。

山上、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた憶良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。また、万葉人がそれぞれに心をこめた相聞の歌も歌わなかった。彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさであった。

笠金村に、遣唐使に贈った歌がある。天平五年(733)年の作である。隋が滅びて唐になって以来、中国への朝貢の使節は遣唐使と名を変え、舒明天皇の二年(630)を第一回目として、天平五年には第十回目の遣唐使が派遣された。船団は竜骨をもちいない粗末な箱船四隻からなり、難波津から出発して瀬戸内海を進み、博多の津から玄界灘へと消えていった。

笠金村は、山部赤人とほぼ同時代か、あるいはやや先立つ世代の宮廷歌人である。赤人と同じように、柿本人麻呂に続く宮廷歌人として、元正、聖武両天皇の時代に儀礼的な歌を作った。その歌には、人麻呂に見られたような神話的な悠久さは薄まりつつあったが、それでもなお、天武持統両天皇の時代に確立した、古代王朝の泰平の響きがこだまのように反映してもいる。

万葉集巻三に、山部赤人が葛飾の真間の手古奈伝説に感興を覚えて詠んだ歌がある。手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという伝説である。赤人は、鄙の地にかかる悲しい話が伝わっているのに接して、哀れみの情を覚え、歌にしたものと思える。

山部赤人には、恋の歌もいくつかある。それらの歌が、誰にあてて書かれたものかはわからないが、中には相聞のやりとりの歌も混じっていて、色めかしい雰囲気の歌ばかりである。赤人は、叙景の中に人間のぬくもりを詠みこむことに長けていたと同時に、人間の心のときめきを表現することにもぬきんでていた。

山部赤人は、儀礼歌を中心にして多くの長歌を書いた。それらの歌は、人麻呂の儀礼的長歌と比べると、荘重さというよりは、叙景の中に人間的な感情を詠みこんだものが多かった。そして、この叙景という点では、赤人の本領は短歌において、いっそう良く発揮された。赤人は、人麻呂の時代と家持の時代を橋渡しする過渡期の歌人として、短歌を豊かな表現手段に高めた人だったといえる。

山部赤人には、富士の高嶺を詠んだ歌がある。特に短歌のほうは、赤人の代表作の一つとして、今でも口ずさまれている。おおらかで、のびのびとした詠い方が、人びとを魅了する。万葉集の歌の中でも、もっとも優れたものの一つだろう。

山部赤人にも、柿本人麻呂同様旅を歌った長歌がある。おそらく、人麻呂と同じく官人としての立場で、地方の国衙に赴任する途中の歌と思われる。それも、上級の役人としてではなく、中級以下の役職だったのだろう。赤人は、儀礼歌の作者として宮廷の内外に知られていたから、旅にして作った歌も、それらの人々に喜ばれたに違いない。

山部赤人は、柿本人麻呂とともに万葉を代表する大歌人である。大伴家持に「山柿の門」という言葉があるが、これは人麻呂、赤人を以て万葉を象徴させた言葉だとされる。古今集の序にも、「人麻呂は赤人が上にたたむこと固く、赤人は人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」と、赤人は人麻呂と並んで高く評価されている。とくにその叙景歌は、後の時代の人々に大きな影響を与え続けてきた。

額田王は、万葉の女性歌人のなかでもひときわ光芒を放つ存在である。ただに女性らしき繊細さに溢れていたというにとどまらない。相聞歌における率直な感情の表出は、斬新なものであったし、また、当時はやりつつあった漢詩に対抗して、和歌にも叙景などの新しい要素を盛り込み、歌の世界を広げたともいわれる。北山茂夫は、彼女を評して、万葉の世紀の初期を代表する歌人であり、人麻呂、赤人へとつながる流れを用意したともいっている。

柿本人麻呂の死については、わからぬことが多い。もっともおだやかな見方としては、任地の石見において、下級官僚のまま死んだのではないかとする斉藤茂吉の説がある。茂吉は、考証を進めた結果、続日本紀にある記録を元に、慶雲四年(707)、石見の国をおそった疫病の犠牲になったのではないかと推論した。人麻呂四十代半ばのことである。

万葉集には、柿本人麻呂作と明記されたもの、長歌十九首、短歌七十五首のほか、柿本人麻呂歌集から採られたものが、三百六十首ばかりある。人麻呂歌集中の作品は、人麻呂が自らの作家ノートとして作っていたもののなかから、万葉集の編者が取り上げたのだと考えられている。

柿本人麻呂は、晩年、石見の国の国司として赴任し、そこで土地の女性と結ばれた。女性の名を依羅娘子という。人麻呂が、後に死に臨んで辞世の歌を詠んだのはこの女性に向けてであり、女性もまた、人麻呂の死後に、その死を悼む歌を残している。

万葉集巻三雑歌の部に、柿本人麻呂の覊旅の歌八首が並べて掲げられている。人麻呂が難波から西に向かう旅の途中に歌ったものもあり、逆に西から京へ帰る途中のものもある。いづれも瀬戸内海をゆく船旅の途上詠まれたものと思われる。

万葉集巻二にある柿本人麻呂の「泣血哀慟の歌二首」は、かつては同じ人の死を悼んだ歌とされていた。しかし、よく読むと、そこには根本的な違いがある。一首目はロマンに満ちた歌であるのに対して、二首目はかなり現実的な調子なのである。しかも、一首目の妻は通い妻であったのに対し、二首目の妻とは同居していた。

万葉集巻二挽歌の部に、「柿本朝臣人麻呂妻死し後泣血哀慟して作る歌二首」が収められている。その最初の歌は、人麻呂が若い頃に、通い妻として通った女人の死を悼んだものとされている。この歌には、愛する人を失った悲しみが、飾り気なく歌われており、その悲しみの情は、21世紀に生きる我々日本人にも、ひしひしと伝わってくる。

Previous 1  2  3  4




アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち41)万葉集を読むカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは35)能と狂言です。

次のカテゴリは42)古典を読むです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。