古典を読む


今は昔、大和國某郡に住む人に、一人の娘があった。姿が美しく、心栄えが優しかったので、両親はたいそう可愛がっていた。また河内國某郡に住む人に、一人の息子があった。年若く、凛々しかったので、京で宮仕えをしていた。笛を吹くのがうまく、心も優しかったので、両親はたいそう大事にしていた。

今は昔、京に身分の低い侍がおった、長年貧乏暮らしで、便りにすべき縁者もなかったが、某という知り合いのものが、思いがけず某國の守に出世した。そこでこの貧乏侍は、この守のもとへ挨拶にいった。守がいうには、「頼りないまま京にいるより、わしと一緒に来ないか、多少の力にはなれよう、今までも気の毒には思っていたが、自分のことで精一杯で、何ともできなかった、一緒に行こうではないか。」

今は昔、京より美濃・尾張のほうへ下ろうとする下臈があった。京を明け方に出ようと思いながら、夜深く起きて行く程に、□と□との辻にて、大路に青ばみた衣を着た女房が裾を取って、只獨りで立っていた。男は、「どんな女なんだろう、ひとりでいるはずはないから、近くに男がいるのだろう。」と思いつつ、通りすぎようとすると、女が「そこのお方、どこへいかれます。」と聞くので、男は、「美濃・尾張の方へ罷り下るのです」と答えると、「それはお急ぎのことでしょうけど、折り入ってお話がありますので、しばらくお付き合いを」と女がいった。

今は昔、ある貴族の家に仕えていた女があった。父母類親もなく、知り合いもいなかったので、訪ねる場所もなく、ただ局にいて、「病気になったらどうしよう」と心細く思っていたが、そのうち決まった夫もいないのに、妊娠してしまった。いよいよ身の不運が嘆かれるのであったが、出産の準備をしようにも、相談できる人もなく、主人にも恥ずかしくて話せないでいた。

 今は昔、利仁將軍という人があった。若い頃は、某という名の関白に仕えていた。越前の國の某の有仁と云う金持ちの聟であったので、いつもは彼の國に住んでいた。

今は昔、三河の国のある郡司が妻を二人持ち、それぞれに養蚕をさせていた。ところがどうしたことか、本妻のほうの蚕が皆死んで、ものにならなかったため、夫は気味悪がって近づかなくなり、従者たちも近づかなかった。それゆえ家は貧しくなり、妻はただ二人の従者とともに、心細く暮らしていた。

今は昔、土佐の國幡多の郡というところに、ある百姓が住んでいた。その百姓は自分が住んでいる浦ではなく別の浦に田を作っていた。

今は昔、京から東へ下っていく者があった。どこの国とも知らぬある里を通りがかったとき、俄かに性欲が高まって、女と何をしたいという欲情が燃え盛り、とても静まるどころではなくなった。たまたま道沿いの垣根のうちに、青菜の畑があって、盛んに生い茂っていたが、十月ばかりのことだったので、青菜の根っこが大きな蕪に成長していた。そこで男は馬から下りて、蕪の大きいのを引っこ抜くと、それに穴をあけ、そこに自分の陽物を突っ込んで射精した。男はようやく性欲が鎮まると、用済みの蕪を垣根の中に投げ捨てて、過ぎ去ったのだった。

今は昔、河内前司源頼信朝臣という武士があった、この頼信があるとき、東国にいい馬があると聞いて、もらいにやらせると、馬の主は断りがたくて、その馬を献上した。そこで馬を連れて京へ上る途中、盗人がこれを見て盗もうと思い、ひそかに隙をうかがっていたが、なかなか隙が見つからず、とうとう京までついてきてしまった。馬はそのまま、頼信の厩に入れられた。

今は昔、河内守源頼信朝臣が上野の守として赴任していたとき、その乳母子に兵衞尉藤原親孝というものがあった。

今は昔、世に袴垂という盗賊の大将軍があった。心太く、力強く、足早く、手先が起用で、思慮深かった。万人から隙をうかがって物を奪い取ることを、役目としていた。

今は昔、東国に源宛・平良文という二人の武士がおった。宛は字を蓑田の源二といい、良文は村岳の五郎といった。

今は昔、村上天皇の御世に、玄象という琵琶が突然なくなったことがあった。これは天皇家に代々伝わる大事な宝物であったので、天皇はたいそうお嘆きになり、「こんな大切な宝物を自分の代になくしてしまった」と悲しまれたのも、もっともなことであった。これは盗んだからといって、持っていられるようなものではなかったので、天皇に恨みがあるものが、持ち去って壊したのではないかと、思われたのであった。

今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師があった。古の人にも恥じず、立派な人であった。若い頃、賀茂忠行という陰陽師のもとで修行し、昼夜をわかたず努力したので、なんでも出来ないことはなかった。

 今は昔、河内の國、讃良の郡、馬甘の郷に住んでいる人があった。身分は卑しかったが、家は大いに富み栄えていた。そのものに一人娘がいた。

 今は昔、典藥頭にて某という立派な醫師がおった。世に並びなき名医だったので、多くの患者がいた。

 今は昔、甲斐の國に大井光遠という相撲取りがあった。背は低いが立派な体つきをしており、力が強くて足が早く、うまい相撲をとった。その妹に、年は二十七八ばかり、姿形の美しい女があった。その妹は離れの屋敷に住んでいた。

 今は昔、陸奥の前司橘則光という人がいた。兵の家の出ではなかったが、心が極めて太く、思量が賢く、体力も極めて強かった。見た目などもよく、世の聞こえもよかったので、人から一目置かれていた。

今は昔、宇治殿が関白としてときめいておられた頃のこと、三井寺の明尊僧正は御祈のお供としてつとめていたが、殿は一向に灯明をともすようにお命じになられなかった。というのも暫くしてから僧正を使いにやるつもりでいたのを、まだ誰も知らなかったのである。

今は昔、本院の左大臣と申す人がいらした。その名を時平とおっしゃった。照宣公と申した關白の御子である。本院といふ所にお住みになり、年は僅に三十ばかり、見目麗しく、立ち居振る舞いは優雅であった。それ故延喜の天皇はこの大臣を高く評価なさっていらした。

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