日本文学覚書


「22歳の春にすみれは生まれてはじめて恋におちた」村上春樹の小説「スプートニクの恋人」は、こんな書き出しで始まる。すみれが恋に落ちた相手は17歳も年上の、しかも女性だった。すみれはそんな女性に対して強烈な性欲を感じたのだ。しかし不幸なことに、すみれが恋してしまった相手の女性はレズビアンではなかった。その女性はすみれに欲望を感じることはできなかったのだ。

訳者の村上春樹がいうように、カポーティの小説「ティファニーで朝食を」は映画でのオードリー・ヘップバーンの印象があまりに強烈だったので、小説本来の雰囲気が誤解されて伝わっている感がある。映画の中では成熟した女性のオードリーが、これもまたタフガイ然としたジョージ・ペパードと大人の演技を交し合っていた。だがこの物語は本来、女性を主人公にした青春小説というべきものなのだ。

村上春樹の作品「アンダーグラウンド」に登場するインタビュイーのトップバッターは和泉きよかさんという26歳の女性だ。彼女は外資系の航空会社に勤務していることになっているが、かつてはJRの総合職として働いた経験もある。

村上春樹の作品「アンダーグラウンド」は、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件で被害に遭った人々から聞き出した体験談のインタビュー記録である。事件の現場となった五本の電車ごとに、それに乗り合わせて被害に遭った人々のインタビュー記事を集め、それらを読みあわせることで、事件の全体像が浮かび上がってくるような体裁になっている。

作家村上春樹にとってオウム真理教事件というのは、特別な意味をもったらしい。この事件が起こったとき彼はアメリカにあって、長編小説「ねじまき鳥クロニクル」を執筆中で、事実経過をリアルタイムで追うことはなかったというが、帰国するやかなりの時間を割いて、オウム事件の裁判を傍聴したり、地下鉄サリン事件の被害者に対して、膨大な時間に上るインタビューを行ったりした。

「アフターダーク」という小説は(少女の)イニシエーションの物語だと、作者の村上春樹本人があるインタビューの中で述べているのを読んで、おやと思った。女子の場合にもイニシエーションと云うものがあるうるのだという当たり前のことに気づかされたのがひとつ、もうひとつは、この小説が一人の若者(少女)の成長の物語という側面を持っていることに気づかされたのが新鮮だったのだ。

「僕=村上はこの文章の筆者である。この物語はおおむね三人称で語られるのだが、語り手が冒頭に顔を見せることになった・・・どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの、<不思議な出来事>について、じかに語っておいたほうが良いと思ったからだ」

村上春樹の小説「アフターダーク」は、「海辺のカフカ」の後で書かれた最初の長編小説である。長編とはいっても、やたら長いのが普通な村上の作品としては比較的短い。文庫本にして300ページ足らずだ。だから中編小説といってもよい。

村上春樹の短編物語集「神の子どもたちはみな踊る」の中で、最も村上らしさが現れた作品と云えば「かえるくん、東京を救う」だろう。これは風采の上がらない中年男が、突然あらわれた蛙の化け物に、東京を地震から救いたいので、ぜひ一緒にやってほしいと頼まれるところから始まる。かえるくんはこのしがない中年男の協力を得て、地下の怪物ミミズ君と壮絶な戦いを展開し、ついに東京を巨大地震から救う、そんなメチャクチャな物語が、読者の心をやさしく癒してくれるのだ。

村上春樹の短編小説集「神の子どもたちはみな踊る」は、1999年に「地震のあとで」という総題のもとで雑誌に連載されたものを核としている。総題が示すように、1995年の神戸の大地震がテーマになっているが、テーマといっても、地震そのものが表立って問題にされているわけではない。地震をきっかけにして、いくつかの物語が緩やかに結びついているといった具合だ。だから地震は隠れたテーマだといってよい。その隠れたテーマを中核にして、相互に関連のないいくつかの物語が語られる、というわけだ。

村上春樹が翻訳したレイモンド・チャンドラーのミステリー小説「ロング・グッドバイ」(The Long Goodbye)を読んだ。チャンドラーの作品を読むのは初めてだし、またミステリー小説など殆ど読んだことがなかった筆者だが、村上春樹がハードボイルドの傑作として評判の高いこの作品をどんな日本語に仕上げているか、そこのところに興味があって読んだ次第だ。

村上春樹の音楽評論「意味がなければスイングはない」は、「ポートレイト・イン・ジャズ」以上に本格的な音楽評論だが、評論の対象はジャズ・ミュージシャンにとどまらず、クラシック、リズム&ブルース、フォークソング、ポップソングという具合に幅広い分野から10人を選び出している。いずれも村上春樹好みのミュージシャンばかりのようだ。

対談集「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」は1994年に当時アメリカ滞在中だった両氏が、河合氏の滞在先のプリンストンで行った二日間にわたる対談を記録したものだ。河合氏によるあとがきにあるとおり、村上春樹が書き上げたばかりの「ねじまき鳥クロニクル」について語るのが主な目的だったらしいが、それにとどまらず話題はいろいろな方面に及んでいる。

村上春樹の長編小説「ねじまき鳥クロニクル」は全三巻からなり、第一巻が「泥棒カササギ」、第二巻が「予言する鳥」、第三巻が「鳥刺し男」というタイトルを付され、全体のタイトルとして「ねじまき鳥クロニクル」を用いている。いづれも鳥にちなんだ命名である。

村上春樹の小説は、「ノルウェーの森」を除いて、ほとんどの作品をシュール・レアリズムと特徴づけてよい。筋書き、場面設定、会話の進行を通じて、シュールな雰囲気が充満している。しかしシュールさはあまり度が過ぎると、現実を遊離し、荒唐無稽なものに陥りやすい。だが村上の作品世界は必ずしもそうなってはいない。そうさせないためのいくつかの装置があるのだが、その最も有用なものは、夢、幻想、霊魂の活動をうまく活用していることだろう。

村上春樹は小説の展開のきっかけとしてセックスシーンをよく使う。大江健三郎などの世代と比較して、その描写は生々しいものだ。日本文学が大胆で開放的になってきたことの現れだと思うが、この(セックスの解放という)プロセスに、村上自身大きく寄与していることも明らかだ。

「ねじまき鳥クロニクル」の主人公僕が井戸の底に興味を抱くようになったきっかけは間宮中尉から聞いた話だった。外蒙古でロシア人たちに捕らえられ、仲間の山本が皮をはがれて死んだ後、中尉は枯井戸のそばへ連れて行かれ、ここで銃で撃たれて死ぬか、井戸の中に飛び込むかどちらかを選べといわれる。井戸の中に飛び込んでも、巨大な砂漠の中のちっぽけな空間で生き残る可能性はゼロに等しい。それでも中尉はとっさの判断で、銃に撃たれるより井戸の中に飛び込むことを選んだのだった。

村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」では、バットが暴力の徴票として機能している。バットというものは基本的にはボールを打つために作られているのに、それが人間を殴ったり叩き殺したりするために使われるとき、おどろおどろしい人間の暴力性が濃縮してあらわれるグロテスクな道具となるのだ。

作者の村上春樹自身いろいろな場面でいっているように、「ねじまき鳥クロニクル」においては暴力が大きなテーマになっている。ほとんど全篇が暴力にまつわる挿話によって彩られているといってよい。その暴力は、戦争という形であらわれるメカニックな暴力から、個人と個人が顔を突き合わせて傷つけあうヒューマンな暴力まで、多重な性格を帯びている。この小説は暴力のショーケースのような感を呈しているのである。

村上春樹の小説は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから長くなる傾向を強め、「ノルウェイの森」、「ダンス、ダンス、ダンス」を経て「ねじまき鳥クロニクル」にいたってひとつの頂点を示した。この小説は実に三巻計1400ページに上る大長編小説であり、日本の小説としては型破りに長いものとなった。

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