日本文学覚書


「第百階級」の中にある「亡霊」という詩は、カエルの夢想を歌ったものである。カエルは日ごろ蛇によって捕らえられ食われる運命にある。ところがそのカエルが逆に蛇を捕らえて食ったらどんな気持ちがするだろうか。「つめたくぬるぬるしておいしい」だろうか。

「第百階級」は草野心平の処女詩集として、みずみずしい感性に溢れているとともに、表現に幼稚なところがあったり、広がりや深さを感じさせないものもある。だが総体としてみれば、躍動する生命感のようなものが詩集を貫いて息づいているといえる。

「第百階級」は草野心平の実質的な処女詩集である。活版印刷した上で同人雑誌銅羅社から出版したという体裁をとっているが、これを印刷したのは静岡県の杉山市五郎という農民詩人で、手動式の名詞印刷機で印刷したものだった。だから誤植が目立つ粗末な本だったらしい。

草野心平の詩の形式上の特色として、オノマトペの多用と句読点の特異な使い方がある。オノマトペは、宮沢賢治も好んで使ったものだが、心平の場合、それ自身が表現の全体をなしているものがある。

筆者が草野心平の詩に親しむようになったのは、宮沢賢治の延長線上においてである。草野心平は、宮沢賢治の作品を生前から評価した数少ない(というよりほとんど唯一の)文学者であり、賢治の詩を同人誌「銅羅」に掲載したりしたほか、賢治の死後その遺稿を整理し、全集の形にして後世に伝えた人である。彼の存在がなかったら、宮沢賢治が偉大な文学者として日本人の心の中に定着することはなかったかもしれない。

「雨ニモマケズ」で始まる、宮沢賢治のあの有名な文章は、詩という形で書いたのではなく、賢治が自分自身に言い聞かせるための、自戒のようなものとして書いたものだった。賢治はそれを死の前々年の秋に手帳に書きとめ、そのままかばんの一隅に詰めていたものを、弟の清六が賢治の遺品を整理している最中に発見した。いきさつからして、いわくのようなものにつつまれている。

「グスコーブドリの伝記」は賢治の死の前年に児童雑誌に発表された。賢治最晩年の作品であるが、内容的から見てもそういうのに相応しいところがある。この作品には賢治が最後にたどり着いた思想が、簡潔にそして美しい言葉で語られているのだ。その思想とは簡単にいえば、自己犠牲を通じて世界と和解するということである。

「銀河鉄道の夜」に出てくるさそりの火の挿話は、動物が星に変身するという点で「よだかの星」とよく似ている。違う点は、よだかが自分の意思で星になるのに対し、さそりは見えない意思によって星になることだ。

リンゴは宮沢賢治が好きな食べ物だったらしく、実にいろいろなところで取り上げている。「銀河鉄道の夜」の中でも、リンゴが出てくるし、またこの物語の発想の原点となった「青森挽歌」においても、賢治の乗った列車はいつの間にかリンゴの果肉の中を走っているのであった。

銀河鉄道の中で展開するさまざまなシーンの中で、「鳥を捕る人」の挿話は、銀河鉄道の走っている世界が、この世の三次元空間の延長ではなく、自由自在な異次元の世界であることを最も強く感じさせるものだ。そこでは空間と時間とが、地球上の法則を無視して展開する。

銀河鉄道の旅はジョヴァンニたちにさまざまな眺めと経験をもたらしてくれる。そのひとつひとつが象徴的な意味合いを帯びている。一方銀河鉄道に乗り込んでくるひとびとは、親友のカンパネルラを含めて、みなこの世では死んだ人たちである。彼らは銀河鉄道での旅をしながら、自分がこれから赴き、そこで生きていくべき場所を求めているのだ。

「銀河鉄道の夜」には、宮沢賢治が生涯をかけて追求したテーマに対する一定の回答が込められている。賢治が追求したテーマは、微細に分類すると多くの枝に分かれるが、幹ともいうべき部分は、魂の永遠性ということだ。

  どっどど どどうど どどうど どどう
  青いくるみも吹きとばせ
  すっぱいかりんも吹きとばせ
  どっどど どどうど どどうど どどう

宮沢賢治の童話「風の又三郎」は、このような印象的な擬音語で始まる。言葉のリズムから容易に連想されるとおり、これは風の音を模したものだ。しかも烈しく吹いて、くるみやかりんの実を吹き飛ばし、通り過ぎた後に不思議な記憶を残すような風、この童話はそんな風のような少年をめぐる、遠い昔の甘い記憶のような物語なのだ。

宮沢賢治には、生前に発表した「グスコーブドリの伝記」を始め、「ポラーノの広場」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」を含めて比較的長編の童話が四篇ある。賢治自身これら四篇を少年小説あるいは長編として一括りにしていた。自作の中でも特別な位置づけを付していたことが推測される。

宮沢賢治には疎外をテーマにした一連の作品がある。「風の又三郎」は共同体から疎外された少年を、共同体の視点から描いたものといえるし、「銀河鉄道の夜」の主人公ジョヴァンニは共同体の祭りから疎外されて、その中に加われないでいるうち、ひとり天空への旅へと飛躍していく。

宮沢賢治がヴェジタリアンだったことはよく知られている。賢治は熱心な仏教徒だったから、殺生戒に強く影響されていたこともあろうが、それにしては異常なほど動物の肉を食うことを控えた。その異常さが、食べ物というものに対する過敏な反応を呼び起こし、それがもとで栄養失調に陥ることもあった。

宮沢賢治の童話「猫の事務所」は、いじめをテーマにしている。賢治は猫の間でのいじめを隠喩として描くことで、人間社会のもろさとおろかさ、そして悲しさをあぶりだそうとしたのだと考えられる。

「オツベルと象」は宮沢賢治の童話のなかでもわかりやすい作品だと思われている。そんなためか、この作品は賢治が生前に発表した数少ないもののひとつだし、また後になって教科書に取り上げられたりもした。

宮沢賢治が音楽好きだったとこはよく知られている。レコードを収集しては、学生や友人に聞かせたり、また自分で楽器を演奏したりもした。そんななかでチェロは気に入ったようで、当時としては非常に高価だったこの楽器を購入したうえ、わざわざ上京して弾き方を習っている。もっともついに上達することはなかったが。

「やまなし」は小学校の国語の教科書にも採用されているとおり、宮沢賢治の童話のなかでもわかりやすく、また美しい作品だ。賢治の大きな特徴であるオノマトペを効果的に使いながら、言葉のリズム感が豊かで、自然の描写がみずみずしく、人の感性に直接訴えかける文章だ。

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