日本文学覚書


「おきなぐさ」は、宮沢賢治の童話の中で最も美しい作品といってよい。語り手がおきなぐさの別名というか、イーハトーブと思われる「わたしどもの方」での「うずのしゅげ」という呼び方を紹介しつつ、おきなぐさとひばりの対話をおいかけながら、おきな草がやがて実を結び、それらが初夏の風に乗って飛び去っていくさまを描いている。

宮沢賢治の童話「鹿踊りのはじまり」は、自然のなかで繰り広げられる動物の営みと、それを見つめる人間との関わり方について描いたものだ。

<をかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。
  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしいほで、けつこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいで
  んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                  山ねこ 拝

「注文の多い料理店」は、宮沢賢治が生前に公刊した唯一の童話集と題名を同じくしている。この童話集が全体的にそうであるように、この作品も、賢治の童話の中では比較的オーソドックスな構成をとっているが、その中に賢治らしい工夫とみずみずしい感性の発露が見られる。

宮沢賢治は、生前に出版した唯一の童話集「注文の多い料理店」に、「イーハトーブ童話」という副題を付した。それ以来、賢治のさまざまな童話は、イーハトーブの名に結びついてひとびとの心を癒し続けた。また賢治自身、生涯を「イーハトーブ」の世界に生きたといって過言ではない。

宮沢賢治には星空を歌った詩が数多くある。銀河鉄道を描いた詩人だから、天空の世界には誰よりも関心が深かったのだろう。そのなかで「春と修羅第二集」に納められている「北いっぱいの星ぞらに」は、冒頭の句にあるように、それこそ空一杯に広がる星々が、明るい月の光の中できらめき動くさまを、感動をこめて歌い上げている。

薤露青とは韮の葉のように真っ青な夜の空と、その葉に丸く固まった露のように白い星をイメージしている。宮沢賢治の詩の中でもとりわけ美しいこの詩は、銀河を歌ったものであり、またその銀河を横切ってきらめき現れる魂の所在を歌ったものだ。

「春と修羅」第二集のなかの北上山地を主題にした一連の作品の中に、「北上山地の春」と題するものがふたつある。ひとつはここに紹介するもので、「浮世絵」という添え書きが付されており、もうひとつは単に「北上山地の春」とある。このうち筆者が座右に置いている筑摩文庫版の全集には後者が本体部分に納められ、前者は異稿の部分に納められている。

大正13年4月20日、宮沢賢治は北上の山の中で夜明けを迎えた。そのときの感動を、賢治は「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」と歌いだす。北上山地夜間行を歌った一連の詩の中で、4番目に位置するものだ。

「有明」は春と修羅第二集のなかの北上山地夜間行を歌った一群の作品の中で三番目につくったものだ。大正13年4月19日の夜から北上の山の中を歩き始めた宮沢賢治は、翌日の未明に、北上川とその下流に広がる盛岡の町を見下ろす稜線にさしかかった。

宮沢賢治は「春と修羅」を書き終えた後も、「心象スケッチ」と称するものを書き続けた。そのうち大正13年から14年にかけて書いたものを「春と修羅 第二集」として出版するつもりだったらしい。

宮沢賢治の詩集「春と修羅」の末尾には、「風景とオルゴール」と題する一連の作品群が置かれている。賢治は作品の配列を作成日時の順に並べているから、これらの作品は、詩集の中で最も新しく作られたということになる。

オホーツク挽歌の一連の作品は、宮沢賢治にとっては、死んだ妹トシの魂の行方を捜す旅でもあった。この旅の間中賢治はトシの魂のことを考え続けながら、宗谷海峡を渡って樺太に至り、そこの広大な自然と雄大な天空を眺めつつ、この宇宙のどこにトシがいるのだろうと、問い続けた。

宮沢賢治は大正12年7月31日から8月12日にかけて、北海道を経て樺太へいたる一人旅をした。直接の目的は農学校の教え子のための就職活動だったらしいが、ほかにもうひとつ大きな目的があった。それは前年の秋に死んだ妹の、魂の行く先をたずねることだった。

宮沢賢治には、マクロコスモスとしての宇宙とミクロコスモスとしての人間とが、どこかでひとつのものに合一する点があるに違いないという確信があった。だから誰よりも愛する妹のトシが死んだとき、彼女の身体は煙になって消えてしまうのではなく、宇宙と合一して新しい命を生きるのだという信念が、あるいはすこし割り引いていえば、そうあって欲しいという希求心があった。

慟哭とは声を上げてむせび泣くことだ。だから無声の慟哭とは形容矛盾のように見える。だが賢治にとっては、声にならない慟哭もありえたのだろう。妹トシの死に際して賢治をおそったものが、そんな慟哭だった。

宮沢賢治の詩「松の針」は、詩集「春と修羅」の中の「無声慟哭」と小題を付された五編の詩のうち、「永訣の朝」に続くものである。詩のモチーフも「永訣の朝」と関連しあっている。

宮沢賢治の詩集「春と修羅」には、妹トシの死を悼んだ一連の作品がある。トシは賢治の二歳年下の妹で、賢治とは特別に密接な関係で結ばれていたことはよく知られている。法華経を仲立ちにした信仰上の同士であったということのほかに、トシに対する賢治の異常ともいえる思い入れをもとに、そこに近親相姦を想像する論者さえいる。

原体剣舞連(はらたいけんばいれん)は宮沢賢治の詩の中では一風変った趣のものだ。彼はこの詩を、岩手県の江刺地方でみた剣舞の印象をもとに作ったことがわかっている。子供たちが踊る剣舞の荒々しくもさわやかな様子を、地元に伝わる鬼の伝説を入れ混ぜながら描いているが、その鬼に修羅のイメージを重ねることで、自分自身の悩みをも盛り込んでいるといえなくもない。

宮沢賢治の詩の著しい特徴は、自然の風景や心の中の揺らぎを、ありのままに連続的に描き続けていくことである。賢治はそれを心象のスケッチといっていた。

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