日本文学覚書


「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

鴎外の長大な史伝体小説「伊沢蘭軒」は、主人公たる伊沢蘭軒二十一歳の歳、寛政九年(1797)に始まり、孫の棠軒が没する明治八年(1875)で終っている。そのカバーする時代は、蘭軒一族の三代にわたる八十年間である。

森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」は、「渋江抽斎」の新聞連載終了後、「寿阿弥の手紙」の連載を挟んで、ほぼ一ヶ月後には連載が始められている。鴎外は渋江抽斎について書き進んでいくうちに、抽斎の師であった蘭軒に深い関心を抱くようになり、この人物についてどうしても書いてみたいという強い衝動にとらわれたらしい。

森鴎外の史伝体小説「渋江抽斎」において、最も精細を放っている人物は、主人公抽斎本人というより、その妻五百であろう。五百がいなかったとしたならば、抽斎の人生もいっそうわびしく映り、したがってこの小説の面白みは半減してしまったに違いない。それほど彼女の存在感は大きい。しかもこの作品の後半は抽斎没後の家族の消息にあてられ、そこでは五百の存在感は全体を多い尽くすほど大きなものになるのである。

森鴎外が武鑑の収集を通じて、渋江抽斎という歴史上の一人物に出会った経緯については、先稿でも述べたとおりである。鴎外はこの人物が、武鑑という普通の感覚ならあまり面白くもないものに情熱を注ぎ、その傍ら学者として古い文献の考証に力を注いでいたらしいことを知るに及び、俄然その人物への関心の高まるのを感じ、その人物について多くを知りたいと思うようになった。そしてこのような思いがやがて実を結んで、鴎外の最高傑作ともいえる「渋江抽斎」の執筆へとつながっていくのである。

森鴎外最晩年の文業を飾るものは、「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の、今日史伝三部作と称される作品群である。これらは発表時世人から受け入れられること甚だ薄く、「北條霞亭」にいたっては、連載していた大手新聞社から事実上連載の中断を迫られるほどの扱いを受けた。これらの作品群は鴎外存命中はもとより死後しばらくの間、彼の文業を代表するものとは評価されなかったのである。

「山椒大夫」(さんせう太夫)は、説経や浄瑠璃の演目として古くから民衆に親しまれてきた物語である。安寿と厨子王の悲しい運命が人びとの涙を誘い、また彼らが過酷な運命の中で見せる情愛に満ちた行動が、人間というものの崇高さについて訴えかけてやまなかった。鴎外はそれを現代風の物語に翻案するに当たって、「夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮かべてみた」と書いているが、けだし物語の持つ稀有の美しさに打たれたのであろう。

森鴎外の小説「安井夫人」は、幕末の漢学者安井息軒とその妻佐代を描いたものである。「興津弥五右衛門の遺書」を皮切りに歴史小説を書き綴ってきた鴎外にとって、その延長上での執筆であるが、それまでの小説とはやや趣を異にしている。テーマというほどのものがなく、息軒とその妻佐代の生涯を手短に淡々と綴ったこの小説は、小説というより、歴史上の人物に関する簡単な史伝といった趣を呈しているのである。

森鴎外が大正二年の十二月に書き上げた歴史小説の第五作目「大塩平八郎」は、それまでの歴史小説とはいささか趣を異にしている。

森鴎外は「意地」に収められた三篇の作品の後、「護持院原の敵討」という短編小説を書いた。先の三篇が殉死あるいはそれに象徴される封建時代における武士の体面とか意地をテーマにしていたのに対し、これは敵討というものをテーマに取り上げることによって、封建道徳の内実と、それに呪縛され翻弄される者の運命を描いたものである。

「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」を書き上げた森鴎外は、続いて「佐橋甚五郎」を書いた。その上で、この三作を一本にまとめ、「意地」という表題を付して出版した。当初「軼事篇」という表題を考えていたが、書店のアドバイスを容れて改めたのだという。三作の内容を的確に言い当てていると自身考えたのであろう。

森鴎外は乃木希典の殉死に衝撃を受け、乃木の心情を弁蔬するために、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。というのも、当時の世論は乃木の行為に対してとかく批判的であり、その意義を理解しようとしないばかりか、笑いものしようとする風潮まであったので、鴎外はこのまま見捨てては置けないと考えたのである。だが鴎外は、乃木の殉死を弁蔬しながらも、古来武士の美風とされてきた殉死というものには、単に個人の真情の範囲にとどまらない、複雑な背景があったのだということに気づくに至った。

森鴎外の晩年を飾る一連の歴史小説のさきがけともなった「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の明治天皇への殉死を直接のきっかけとして書かれたものである。この殉死については、鴎外は日記の中で次のように記している。

森鴎外の晩年における創作活動は、今日歴史小説といわれているものに収束していく。彼は大正元年51歳のときに、明治天皇の死に対してなされた将軍乃木希典の殉死に触発され、「興津弥五右衛門の遺書」を書くのであるが、これがきっかけになって、殉死に象徴される権力と個我との緊張について思いをいたすようになった。阿部一族以下次々と書き継いだ歴史小説は、その思いを深化させ、検証していく過程ともいえる。

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