日本史覚書


2005年の反日デモは、日中関係にとって画期的な転回点になった、毛里和子氏の著書「日中関係」はそうとらえている。それまでは主に政府間関係として動いてきた日中関係に、一般の国民が深くかかわるようになり、政府といえどもこうした民衆の形成する世論を無視できなくなった、それは両国間の関係が全く新しい段階に入ったことを意味する、と理解するわけだ。

毛里和子著「日中関係」(岩波新書)を読んだ。戦後の日中関係の歴史を概観したもので、両国関係の過去を知るとともに、今日両国間で起きている様々な問題を理解するうえでも、なかなか参考になる。併せて、今後の日中関係のあり方についても、示唆に富んだ提言を行っている。

津村節子さんの小説「流星雨」を読んだ。戊辰戦争のうち会津で行われた戦争と、戦争の結果敗者である会津の人々がたどった過酷な日々を描いている。先日読んだ「ある明治人の記録:会津人柴五郎の遺書」が、男の子の目から見た会津戦争の悲惨な記録だとしたら、これは女の子の視線に立った戦争被害者の鎮魂歌ともいうべきものだ。

明治維新の際に、会津藩が幕府側の中心となったことを咎められ、朝敵の汚名を着せられて官軍の攻撃を受け、降伏後は下北半島に追放されて、塗炭の苦しみを味わったということは、色々な機会に聞いたことがあった。ところがその苦難を、一身を以て体験したという歴史の生き証人の記録を、偶然読む機会をもった。その記録とは「ある明治人の記録:会津人柴五郎の遺書」(中公新書版)というものである。

澤地久枝、半藤一利、戸高一成三氏による鼎談記録「日本海軍はなぜ過ったか」を読んだ。先般海軍反省会による会談の記録がNHKによって編集の上放映され、大きな反響を呼んだところだが、これはその反省会の記録の意義や問題点について、アジア・太平洋戦争にそれぞれの立場からかかわってきた三人に、語り合ってもらったものだ。

NHKの特別報道番組「東京大空襲」に触発されて、早乙女勝元さんの「東京大空襲」(岩波新書)を三十数年ぶりに読み返した。早乙女さんがこの本を書いたのは1970年というから戦後25年がたっていたわけだが、その時点でも、この歴史的な事件についての調査は殆ど進んでおらず、全容の把握が困難な中で、早乙女さんは奇跡的に生き残った人々の記憶を頼りに、この空襲がどんなものだったか、再現して見せた。初めて読んだ時も衝撃をうけたが、今読んでも身の毛がよだつような興奮を覚える。

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東京大空襲を記録した写真583枚が文京区の民家から出てきたといって、NHKがその内容を紹介する番組を組んだ。(NHKスペシャル「東京大空襲 583枚未公開写真」)

東条英機は評価の揺れの激しい政治家である。プラスの方向に評価する者は、彼の実践力とまじめな性格を強調する。昭和天皇が東条に好意的だったことは良く知られているが、それは天皇が東条のまじめさを評価したからだった。

旧厚生省によれば、日中戦争の発生から敗戦までの日本人の戦没者数は、軍人、軍属などが約230万人、外地の一般邦人が約30万人、空襲などによる国内の戦災死没者が約50万人、あわせて約310万人である。この数字の中には、朝鮮人。台湾人の軍人、軍属の戦没者約5万人も含まれている。

1941年12月8日に始まり1945年8月15日の日本の全面降伏で終わったあの壮大な戦争を、歴史学者の吉田裕は「アジア・太平洋戦争」と呼んでいる(「アジア・太平洋戦争」(岩波新書))。戦争の最中、当事者である日本の指導者たちが使った大東亜戦争という言い方は、あまりにもイデオロギー的だし、かといって歴史学者の間でよく使われている太平洋戦争という言葉では、この戦争の規模がカバーしきれない。この戦争は、太平洋の島々にとどまらず、北は満州から南は東南アジアのほぼ全域をカバーする壮大な戦争だったのだ。

加藤陽子著「満州事変から日中戦争」を読んだ。岩波新書の日本近現代史シリーズのうちの一冊だ。この本で著者の加藤洋子氏は、満州事変から日中戦争にかけて石原莞爾という一軍人が果した役割に注目している。

東京裁判については、筆者もそうだが、日本人の多くは両義的な感情を抱いているのではないか。一方では、敗戦国である日本を戦勝国であるアメリカ以下の国が裁いたという点で、極めて政治的な出来事だったのであり、法的な正義をそこに見出すことはできないと感じながら、もう一方では、日本を無謀な戦争に引きずり込み、国を破滅させたばかりか、自分ら国民をひどい目にあわせた戦争責任者たちも許せない、そういった感情も働くという具合なのではないか。

半藤一利さんの著書「ソ連が満州に侵攻した夏」は、1945年8月9日にソ連が対日参戦して以降日本側が蒙った損害について概括的に記録している。半藤さんによれば、8月9日以降の僅かの期間に日本軍が蒙った戦死者の数は、ソ連情報局の特別声明をもとに約8万人と推定される。たった一週間でこれだけの人間が殺されたのだ。

スターリンが対日参戦を決断したのは、アメリカやイギリスを助ける為(連合国に対する義務)ではなく、まして軍国主義に対する民主主義の勝利の理念からなどではなく、自分自身の野心を成就させるためだった。その野心とは、日露戦争の敗北によって失ったものを取り戻すことだった。著書「ソ連が満州に侵攻した夏」の中で、こう半藤さんは断定している。

大槻文彦は明治2年の「北海道風土記」を手始めにして、「琉球新誌」、「小笠原新誌」とった海防論ともいうべき著作を連続して書き上げた。いずれも日本周辺に位置する島々が日本古来の固有の領土である所以を考証し、これを領せんと虎視眈々と狙う外国勢力に対して防備を固めなければならぬと主張したものである。

高田宏「言葉の海へ」を読んだ。日本最初の本格的国語辞典「言海」の著者大槻文彦の評伝である。一人の学者が日本近代化の象徴である国語辞典を単身の努力で作り上げていく過程を、明治維新と云う歴史的大変動と関連付けながら丁寧に浮かび上がらせていた。その点で、明治維新史のちょっと変わったヴァリエーションとしても楽しむことができる。

文春文庫版の「昭和天皇独白録」を読んだ。昭和21年3月18日から同4月8日までの延5回にかけて、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、松平康昌宗秩寮総裁、稲田周一内記部長及び寺崎英成御用掛の5人に、昭和天皇が独白と云う形で、大東亜戦争の遠因から戦争遂行への天皇自身のかかわりなどについて率直に語られたものを、寺崎英成が記録したものだ。

ロシア・ソ連は日清、日露戦争以来の日本の宿敵だった。日本が朝鮮半島を属国とし、満州に傀儡国家を樹立したのも、ロシアの脅威に備えるための防波堤としての役割を期待しかたらだ。無論それがすべてではないが、最も大きな動機であったことは間違いない、と半藤さんは考える。

昭和初期の新聞社が軍部と結託して戦争を煽ったことについては、先稿「熱狂はこうして作られた:メディアの戦争責任」の中でも触れたところだ。その中で、最も戦争礼賛に熱心だったのは東京日日新聞(今の毎日新聞)で、朝日新聞などは批判的なところもあったと書いたが、それは事実ではなかったようだ。半藤一利さんの「昭和史」を読むと、大新聞は一貫して戦争を煽り立てていたということになる。

半藤一利さんは「昭和史」の中で、日本軍による南京虐殺は確かにあったと断定している。ただし、中国側が主張するように30万-40万人もの人間が虐殺されたということは、当時の南京の状況からしてありえない。それでも国民党軍の兵士や一般市民など3万人程度を、日本軍が戦闘行為以外の場で虐殺したことは間違いないようだ、という。

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