漢詩と中国文化


元豊5年(1082)、黄州に流されてから3年目の秋、7月の16日に、蘇軾は同郷蜀の道士楊世昌とともに、長江に船を浮かべて、赤壁に遊んだ。

蘇軾は好奇心が旺盛でいろんなことに手を出したが、料理は自分の趣味にとどまらず、周囲の人々まで幸福にさせることができた。中でも評判がよかったのは豚肉を煮たものだ。

蘇軾の七言絶句「東坡」(壺齋散人注)

  雨洗東坡月色清  雨は東坡を洗って月色清し
  市人行盡野人行  市人行き盡して野人行く
  莫嫌犖確坡頭路  嫌ふ莫かれ犖確坡頭の路
  自愛鏗然曳杖聲  自ら愛す鏗然として杖を曳くの聲

  夜飲東坡醒復醉  夜東坡に飲んで 醒めては復た醉ふ
  歸來仿佛已三更  歸り來れば仿佛として已に三更
  家童鼻息已雷鳴  家童の鼻息已に雷鳴
  敲門都不應     門を敲けども都て應へず
  倚帳聽江聲     帳に倚って江聲を聽く
  長恨此身非我有  長に恨む此の身我が有に非ざるを
  何時忘卻營營    何れの時にか營營たるを忘卻せん
  夜闌風靜縠紋平  夜闌けて風靜かに縠紋平らかなり
  小舟從此逝     小舟此より逝きて
  江海寄餘生     江海に餘生を寄せん

蘇軾の五言古詩「東坡八首其五」(壺齋散人注)

  良農惜地力  良農は地力を惜しむ
  幸此十年荒  此の十年の荒を幸とす
  桑柘未及成  桑柘未だ成るには及ばざれど
  一麥庶可望  一麥望むべきに庶(ちか)し
  投種未逾月  投種して未だ月を逾(こ)えざるに
  覆塊已蒼蒼  塊を覆ひて已に蒼蒼たり
  農夫告我言  農夫我に告げて言はく
  勿使苗葉昌  苗葉をして昌かんならしむる勿れ
  君欲富餅餌  君餅餌に富まんと欲すれば
  要須縱牛羊  要(かならず)須らく牛羊を縱(はな)つべしと
  再拜謝苦言  再拜して苦言に謝す
  得飽不敢忘  飽くを得なば敢へて忘れず

蘇軾の五言古詩「東坡八首其四」(壺齋散人注)

  種稻清明前  稻を種う清明の前
  樂事我能數  樂事 我能く數へん
  毛空暗春澤  毛空 春澤暗く
  針水聞好語  針水 好語を聞く
  分秧及初夏  秧を分ちて初夏に及び
  漸喜風葉舉  漸く喜ぶ風葉の舉がるを
  月明看露上  月明らかにして露の上るを看る
  一一珠垂縷  一一 珠 縷を垂る

蘇軾の詩から「東坡八首其二」

  荒田雖浪莽  荒田浪莽たりと雖も
  高庳各有適  高庳各々適する有り
  下隰種亢余  下隰に亢余を種ゑ
  東原蒔棗栗  東原に棗栗を蒔かん
  江南有蜀士  江南に蜀士有り
  桑果已許乞  桑果已に乞ふを許せり
  好竹不難栽  好竹栽するに難からず
  但恐鞭橫逸  但だ恐る鞭の橫逸するを

蘇軾の詩から「東坡八首其一」

  廢壘無人顧  廢壘人の顧る無く
  頽垣滿蓬蒿  頽垣蓬蒿滿つ
  誰能捐筋力  誰か能く筋力を捐てん
  歳晩不償勞  歳晩勞を償はず
  獨有孤旅人  獨り孤旅の人有り
  天窮無所逃  天窮せしめて逃るる所無し
  端來拾瓦礫  端(まさ)に來りて瓦礫を拾ふ
  歳旱土不膏  歳旱して土膏ならず
  崎嶇草棘中  崎嶇たり草棘の中
  欲刮一寸毛  一寸の毛を刮らんと欲す
  喟焉釋耒嘆  喟焉として耒を釋てて嘆く
  我廩何時高  我が廩何れの時にか高からん

黄州の蘇軾の周りには様々な人が集まってきたが、そのなかには旧知の馬夢得もいた。彼はもう20年も蘇軾に付き合っていたのだったが、蘇軾が罪を蒙って流謫の身にあってもなお、見捨てることはなかった。

息子邁とともに一足早く黄州についた蘇軾は、残りの家族が来るのを待つ間、定恵院という寺に仮住まいした。そこは長江から少し離れ、樹木が鬱蒼と茂った山の中にあった。

元豊2年(1079)の大晦日に、蘇軾は4か月余りにわたる拘禁の末に、釈放されて出獄した。獄門を出ると、蘇軾はしばらく立ち止まって空気を吸い、街をゆく人々の姿を眺めたり、カササギの声に聞き入ったりして、自由の身になった喜びを噛みしめた。

蘇軾が獄中で死を覚悟し、弟の蘇轍に贈った詩二首のうちの二つ目である。自分が死んだ後に妻子が路頭に迷わぬよう、面倒を見て遣ってほしい、そんな気持ちが伝わってくる。

  柏臺霜氣夜淒淒  柏臺の霜氣 夜淒淒たり
  風動琅璫月向低  風は琅璫を動かし 月は低きに向ふ
  夢繞雲山心似鹿  夢は雲山を繞り 心は鹿に似たり
  魂驚湯火命如雞  魂は湯火を驚かし 命は雞の如し
  眼中犀角真吾子  眼中の犀角 真に吾が子
  身後牛衣愧老妻  身後の牛衣 老妻に愧づ
  百歲神游定何處  百歲の神游 定めて何れの處ぞ
  桐郷知葬浙江西  桐郷は知る 浙江の西に葬らるると

蘇軾は元豊2年(1079)7月28日に逮捕され、8月18日に御史台の獄に投ぜられた。だが獄中の蘇軾は、そんなにひどい待遇は受けなかった。というのも、獄卒の一人が蘇軾を非常に尊敬していて、彼のために何かと便宜を図らってくれたからだ。そのひとつに、毎夜足を洗う樽を持ってきてくれたことがあげられる。これは今でも四川人の風習とされているものである。

蘇軾の投獄

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元豊二年(1079)蘇軾は徐州の知事から湖州の知事に転任した。その際蘇軾は皇帝に奉る感謝状「湖州謝表」を作った。その謝表の中で、蘇軾は新法派の役人たちを批判した。これが批判の対象とされた役人たちを怒らせ、蘇軾を弾劾させたのだった。

蘇軾の七言古詩「月夜與客飮酒杏花下」(壺齋散人注)

  杏花飛簾散餘春  杏花 簾に飛んで 余春を散ず
  明月入戸尋幽人  明月 戸に入って 幽人を尋ぬ
  褰衣歩月踏花影  衣を褰げ 月に歩して 花影を踏めば
  烱如流水涵青蘋  炯として流水の青蘋を涵すが如し
  花間置酒清香發  花間に置酒すれば 清香発す
  爭挽長條落香雪  争でか長条を挽きて香雪を落さん
  山城薄酒不堪飮  山城の薄酒 飲むに堪へず
  勸君且吸盃中月  君に勧む 且く吸へ 盃中の月
  洞簫聲斷月明中  洞簫 声は断ゆ 月明の中
  惟憂月落酒盃空  惟だ憂ふ 月落ちて 酒盃の空しからんことを
  明朝卷地春風惡  明朝 地を巻いて 春風悪しくば
  但見緑葉棲殘紅  但だ見ん 緑葉の残紅を棲ましむるを

蘇軾の詩「中秋の月」(壺齋散人注)

  暮雲収尽溢清寒  暮雲収まり尽きて清寒溢る
  銀漢無声転玉盤  銀漢声無く玉盤転ず
  此生此夜不長好  此の生此の夜長へに好からず
  明月明年何処看  明月明年何れの処にか看ん

熙寧十年(1077)蘇軾は密州から徐州の知事に転じた。徐州は江蘇省北部の交通の要衝であり、大都会であった。この地に蘇軾はわずか2年間在職したにすぎなかったが、行政官僚として洪水対策などで功績をあげたほか、詩人としての名声も飛躍的に高まった。そうした名声の高まりが、新法派の猜疑心を強め、やがて失脚へとつながっていく。

  百年三萬日  百年 三萬日
  老病常居半  老病常に居半す
  其間互憂樂  其の間互ひに憂樂あり
  歌笑雜悲歎  歌笑 悲歎を雜ゆ
  顛倒不自知  顛倒して自ら知らず
  直為神所玩  直ちに神の玩ぶ所と為す
  須臾便堪笑  須臾にして便ち笑ふに堪ふ
  萬事風雨散  萬事 風雨散ず
  自従識此理  自ら此の理を識ってより
  久謝少年伴  久しく謝す 少年の伴を

熙寧七年(一〇七四)杭州での任期が終わった蘇軾は自ら志願して密州の知事になった。密州は現在の青島のあたりだが、同じ山東の済南に弟の蘇轍が書記として仕えていた。

蘇軾は諧謔好きで、詩の中にもその精神を盛り込んだ。諧謔はさまざまなものを対象にしたが、厳格な僧侶に対しても向けられた。ここに面白い逸話がある。

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