中国古代の詩


楽府は、古体詩、近体詩と並んで中国の韻文の三大様式の一をなすものである。曲をつけて歌うものであることから、樂曲ともいうべきものであり、その詩文を歌辞といった。題名には、歌、行、引、曲、吟などの文字を冠したものが多い。

班倢妤は日本人にとっては、能「班女」の典拠となった女性の名として知られてきた。能においては、絶えず扇をつま繰る主人公の姿が、班倢妤を思い起こさせるというので、班女というあだ名を頂戴することになっている。本物の班女のほうも、自らを扇に見立てた怨みの詩を残しているのである。

王昭君:怨歌

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王昭君は烏孫公主同様、漢の政略結婚によって匈奴の王に嫁がされた薄幸の女性である。運命の過酷さから、中国人の間ではもとより、日本人にとっても同情の対象となってきた。古来能をはじめさまざまな分野でとりあげられてきたことからも、その同情の深さが察せられる。

卓文君は司馬相如との熱烈な恋愛で知られ、中国史上もっとも愛に忠実な女性だったということになっている。

武帝の時代の漢は、絶えず匈奴と緊張状態にあった。漢は周辺諸国と積極的に同盟関係を結び、匈奴を牽制する策を用いた。そうした小国の一つに烏孫国があった。現在の新疆省にあたる地である。漢は同盟の証しに、王家につながる女性たちを嫁がせたが、その中に、後に烏孫公主と称される薄幸の女性がいた。

李陵は蘇武に遅れること1年後、匈奴との戦いに向かった。李陵を遣わした武帝は始め、李広利の輜重部隊として使うことを考えていたが、これに対し李陵自ら前線での戦闘を希望し、歩兵5000を授けられて北へと向かったのであった。

蘇武は李陵とともに、漢武帝の時代に生きた武人である。天漢元年(紀元前100)、匈奴との和睦のために遣わされたが、匈奴の内紛に巻き込まれて抑留された。匈奴の単于に勇気を買われて帰順することを進められても節をまげず、生涯漢に忠節を尽くした。その姿勢が、愛国者としての蘇武のイメージを、長らく中国人の中に定着せしめてきたのである。

漢の武帝が晩年愛した女性に李夫人がいた。武帝が秋風辞の中で「佳人を懷うて忘る能はず」と歌ったその佳人であるとされる女性だ。彼女の一家は倡と呼ばれる芸能民だった。

東方朔は能の曲目にも取り上げられているから、日本人には古くから馴染みの深い人物である。能においては仙人ということになっているが、実在の東方朔は漢の武帝に仕えた侍従であった。

漢の武帝は漢王朝五代目の君主として、漢を全盛時代に導いた。16歳で即位し、その在位期間は55年の長きに及んだ。北では匈奴が力を増し、外交上の緊張もあったが、この時代の漢はあらゆる意味で繁栄を誇ったといえる。

中国4000年の歴史は数々の英雄たちの群像で彩られている。秦末に登場した項羽と劉邦は、そうした群像たちの中でもひときわ大きな光芒を放つ存在である。

史記列伝は冒頭に伯夷伝を置いている。周の武王が武力を以て殷を討とうとしたのを、伯夷・叔斉は非暴力の立場から諌めた。しかしその声が聞き入れられなかったので、後に周の時代が到来すると、伯夷・叔斉はその世にあることを潔しとせず、首陽山に隠れ蕨を摘んで命をつないだ。

「古詩源」は清代の学者沈徳潜の著した中国古代の詩歌拾遺集である。帝王の時代から隋の時代に至る古詩976篇を集めている。古詩を集めたものとしては、すでに古くから「文選」や「玉台新詠」などがあり、そのほかにも楽府歌辞を集めたものなどがあったが、沈徳潜は自分なりの考えに基づいてコンパクトな詩集を作ったのである。

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