シェイクスピア


「ペリクリーズ」以下のシェイクスピアの最晩年の作品群をロマンス劇に分類するのが、今日では当たり前のことになっているが、それはシェイクスピア自身が明示的に意図したものではない。エドワード・ダウデンが1875年に著した「シェイクスピア論(Shakespeare: A Critical Study of His Mind and Art)」の中で、この言葉を用いたのが始まりだ。それまでは、今日ロマンス劇と云われる「ペリクリーズ」以下の四作品は、喜劇に分類されていた。

「テンペスト」には二つの結末がある。劇内部での結末と、劇外での結末だ。両方とも主人公のプロスペロの言葉によって導かれる。しかし劇内部の結末で語られる言葉と、劇外の結末(劇全体のエピローグ)で語られる言葉は意味合いが異なっている。

テンペストに出てくる空気の妖精アリエルは、「真夏の夜の夢」にでてくる妖精パックとよく似ている。実際シェイクスピアが妖精として登場させるのは、この二人だけなのだ。

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キャリバン(Caliban)はシェイクスピアが創造したキャラクターのなかでも最もユニークなものだ。登場人物のリストの中で、彼は「野蛮で奇形の奴隷」というふうに紹介されている。つまり人間の形をしているのではなく、グロテスクな形をした怪物のイメージで包まれているのである。

「テンペスト」はシェイクスピアの最後を飾るに相応しい作品といってもよい。幻想的な雰囲気は「真夏の夜の夢」を、また冒頭の嵐のシーンは「十二夜」を連想させ、しかも完成度が高い。主人公のプロスぺロが敵に復讐して王権を回復するところは一連の歴史劇を思わせる。悲劇を別にすれば、それまでのシェイクスピア劇を特徴づけていたものが、濃縮された形で再現されている。その意味でこの作品はシェイクスピア劇の集大成と位置付けることもできる。

シェイクスピアの劇「冬物語」は、レオンティーズの強烈な嫉妬から始まる。彼の嫉妬が、自分の妻子を破滅させ、自分自身をも絶望の淵に沈めることになる。この劇はそのような絶望的な状況がいかに形成されたか、そしてそれがどのように癒されたかについての、いわば死と再生のサイクルに類似した物語なのだ。

冬物語(Winter's Tale)は、シェイクスピアの作品の中でも極めてユニークなものだ。陰惨な悲劇と祝祭的な喜劇が、16年と云う歳月を間に挟んで、隣り合わせに展開する。悲劇と喜劇の両方の特徴を包み込み、しかもどちらともいえない。そこがこの劇をロマンス劇に分類させた要因だろう。

シンベリンは独裁的な王が自分の気まぐれから子供たちを放浪の運命に追いやり、その子供たちがさまざまな試練に耐え抜いた後に、最後には親子の和解を遂げるという物語だ。その和解の中に、シンベリンの娘イモージェンと孤児ポスチュマスの結婚が含まれていることから喜劇に分類されたこともあるが、話の大筋は喜劇と云うよりは運命劇であり、その点で悲劇的な要素ももっている。そんなところからトラジコメディと呼ばれることもあるが、今日ではシェイクスピア晩年の一連のロマンス劇に含められている。

「ペリクリーズ」は、5幕それぞれの冒頭にコーラスが出てくる。コーラスの名は「ガワー」という。シェイクスピアがこの劇の材源とした中世の小説「恋人の告白」の作者である。この作者にコーラスをさせることで、非常に長い年月や複雑な舞台装置を観客に理解してもらおうとしたのだと思うが、コーラスを持ち込むことで、劇の進行に弾みをつけることを狙っていたのかも知れない。実際の舞台の上で、このコーラスは十分に機能しているといえる。

「ペリクリーズ」は、今日ロマンス劇に分類されるシェイクスピア晩年の四作品のうち最初のものである。ロマンス劇とはなにか、その定義については別稿にゆずるとして、この作品はシェイクスピアの劇の中でも、上演史上もっとも人気のあるものだった。筋立てや演出が、ファンタスティックな要素に富み、エンタテイメントとして魅力があったからだ。その娯楽性こそ、ロマンス劇の本質であるのかもしれない。

「コリオレイナス」は「アテネのタイモン」とともにシェイクスピアの最後の悲劇である。この両者には故国に絶望した男の話と云う共通性があるが、「コリオレイナス」には「ジュリアス・シーザー」と共通の問題をテーマにしているという側面もある。それは歴史における英雄の解釈をめぐる問題である。

ベッド・トリック(Bed Trick)と云うのは、相手を欺いて、期待していたのとは違う人にベッドの相手をさせることを云う。「尺には尺を」という劇には、「終わりよければ」と同じく、このベッド・トリックが仕組まれて、劇の進行に重大な役割を果たすことになる。

「尺には尺を」のヒロイン・イザベラは、数多いシェイクスピア劇のヒロインたちの中でもひときわ精彩を放っている。彼女は知性的でしかも宗教的な感情に満ちており、男心を乱すほどの美貌も備えている。

「尺には尺を(Measure for Measure)」は、「終わりよければすべてよし(All's well that ends well)」とともに、シェイクスピア最後の喜劇ということにされている。この二つの喜劇は、それ以前に書かれた喜劇とは、だいぶ趣が違う。そんなところから、この二つの作品を問題劇と呼ぶこともある。

「終わりよければすべてよし(All's well that ends well)」は、結婚の成就がテーマになっているという点で喜劇の範疇に含めることができるが、他の喜劇とは際立って異なる特徴がある。この劇は、結婚を望みながら自分に辛く当たる男にさまざまな手練手管を弄し、ついには男に自分との結婚を承諾させずにおかなくさせる、賢い女の執念を描いたものなのだ。

「アントニーとクレオパトラ」は、アントニーが自殺する第四幕を以て終了させてもよかった。ところがシェイクスピアは第5幕を書いた。だがそれは、附けたしというには重い内容を含んでいる。そこでテーマになっているのは、クレオパトラのアントニーに対する義理立て、別の言葉でいえば女の意地のようなものなのだ。

「アントニーとクレオパトラ」は壮絶な政治劇であるとともに、中年の男女の悲しい恋物語でもある。それは「ロメオとジュリエット」が展開した若者の情熱的な恋に劣らず、強烈で人間的な恋であった。

シェイクスピアの悲劇「アントニーとクレオパトラ」は、ローマ史に題材をとった壮大な歴史劇だ。それは時間的には10年以上をカバーし、空間的にはローマ人にとっての世界全体を舞台としている。そこに40人もの登場人物が、少なくとも220回以上の出入りを繰り返し、舞台は40回も空になる。劇の壮大さが通常の舞台の枠と進行形式に収まらないのだ。

シェイクスピア劇の中で亡霊が大きな役割を担うのは、ハムレットとマクベスである。ハムレットの中の亡霊は饒舌だ。彼は殺されたデンマーク王の亡霊であり、息子のハムレットの前に出没しては、自分が殺された怨念をつらつらと語る。ハムレットはその亡霊の言葉を信じて、父親の敵討ちに立ち上がるのだ。

マクベスの冒頭に登場するのは三人の魔女たちである。彼女ら、あるいはそのものらは、おまじないのような、現代の観客にはまるで意味の通じない言葉を発して、闇の中に消え去る。

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